↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/6

第三話 誰も、火にかけておりません

 屋敷へ戻ると、ハンナが門のところで待っていた。


「誰も開けてません。マルセルさんが、荷の前に椅子を置いて座ってました」

「座って」

「『開けるなと言われたなら、開けさせない』って」


 厨房へ下りると、その椅子はまだ荷の前にあった。麻布に包まれた燻製の包が一つ、床几の上に載っている。


「奥方様」


 マルセルが立ち上がった。五十を過ぎた、大きな手の男だ。


「これは、いけないものでございますか」

「まだ分かりません。……確かめてもよろしいですか」

「どうぞ」


 私は麻布を解いた。


 冬を越した燻製が、幾枚も重なっている。色は悪くない。塩の吹き方も均一で、脂の照りも澄んでいる。煙の匂いの奥に、樅の樹脂の甘さはない。


 ――王都から来たもの。


 私は小皿を借りて、一枚を置いた。それから、料理用の酒を少しだけ垂らした。


 待つ。


 脂が緩んで、酒が染みていく。


 立った。


 焦がした杏子に似た、甘い匂い。


「……マルセル」

「はい」

「この包は、あなたのお仕事に使う前で、よろしゅうございましたね」

「明日の朝に、と思っておりました」


 明日の朝。


 この人が作る皿を、夫は十八年、ただの一度も疑わずに食べてきた。厨房から出るもので、あの人が何も確かめずに口へ運ぶのは、この人の手を通ったものだけだ。


「マルセル。あなたは、この荷を疑いましたか」

「いいえ。御用の品でございますから」


 そうだろうと思った。


 この人が疑わないところへ、それは届いた。


     *


「十八回目でございます」


 書斎でそう申し上げると、夫はしばらく黙っていた。


「昨日ではなく、明日だったのか」

「はい。祭りの一枚は、効くかどうかの試しだったのだと思います。あの方は、その試しに当たってしまわれただけで」


 夫は窓辺から動かなかった。


「北へは、それきり誰も来ないと思っていた」

「来たのは人ではなく、荷でございました」


 黒い背中が、少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。


「明日、隊商の者を全員、広場へ集めてくださいまし」

「代官に言う」

「それから、祭りの支度を手伝った女衆の方々も」

「なぜだ」

「逃げ道を、先に塞いでおきたいのです」


     *


 翌朝、フランツが報せを寄越した。


 頭が目を覚ました。まだ起き上がれないが、話はできる。


 私は診療所へ寄った。大きな身体が寝台からはみ出している。


「奥方様……申し訳ねえ、俺の荷で」

「お身体のほうが大事でございます。ひとつだけ、伺わせてくださいまし」

「へえ」

「今年から入られた、あの若い方。あの方に、この土地の燻製の食べ方をお教えになりましたか」


 頭は、しばらく天井を見ていた。


「……教えてねえ。道中は塩と鉄の話しかしねえ。食い方なんざ、着いてから覚えるもんだ」

「もうひとつ。御用の荷のことを、あの方にお話しになりましたか」

「話さねえよ。御用の品は頭が預かるもんで、下の者には触らせねえ」


 私は礼を申し上げて、立った。


「奥方様」


 頭が、天井を見たまま言った。


「あいつ、王都で乗ってきたんだ。荷積みの朝に、商会の口利きで。断れる話じゃなかった」


     *


 広場に、隊商の者が十一人。女衆が、来られた方だけで九人。代官と、フランツ。


 夫は、少し離れたところに立っていた。黒衣の背が高いので、どこにいても分かる。


 私はあの若い男の前に立った。


「昨日、伺いましたね。この燻製は、酒に浸して戻してから火にかけるものだ、と」

「は。左様に申し上げました」

「どなたに教わりましたの」


 男は、少しだけ笑った。


「頭から、と申し上げましたが」

「その方は、教えていないとおっしゃっています。道中は塩と鉄の話しかしない、と」


 笑みが止まった。


「……覚え違いでございましょう。ひと月の道中でございます、皆さんにいろいろと教わりましたので」

「では、伺います」


 私は隊商の方々を見渡した。


「この方に、この土地の燻製の食べ方をお教えになった方は、いらっしゃいますか」


 誰も答えなかった。


 十一人が、互いの顔を見た。それだけだった。


「……祭りの支度のときに、城下の方に伺ったのかもしれません。大勢いらっしゃいましたので、どの方かは」

「ハンナ」

「はい」


 ハンナが一歩前へ出た。


「ゆうべのうちに、手伝った女衆の方みんなに伺ってきました。二十三人です。誰も教えてないって言ってます」


「……教わってはおりません」


 男が言った。


「見たのでございます。振る舞いの席で、皆さんがそうしておいででしたから」

「浸すところまでは、ご覧になれたでしょうね」


 私はそう申し上げた。


「けれど、祭りでは、燻製を火にかけた方は一人もおりません。浸したものは、浸したまま振る舞われました。火にかけるのは、家の竈での食べ方でございます」


 男が、何か言いかけた。


「浸すのは見た、火は思いついただけ、と次は仰いますか。……最初は、まとめて頭から聞いたと仰いましたのに」


 男は口を開いて、閉じた。


 広場が静かになった。峠を吹き下ろす風の音だけがしていた。


 男は、長いあいだ黙っていた。


 逃げ道を数えているのだ、と思った。私も同じことをしたことがある。東屋の茶会の席で、何度も。数えても、たいてい一つも無かったけれど。


「……王都でございます」


 男は、そう言った。


「荷積みのときに、商会の方に伺いました。北ではそうして召し上がるのだと」


 私は頷いた。


 そうしてくださると思っていた。どこかの、名も知らぬ誰かに聞いた。それが最後に残る逃げ道で、こちらから確かめに行けないのは、その通りだ。


 だから、待っていた。


「では、あなたは荷を託した方をご存じなのですね」


 男が、私を見た。


「あなたを隊商に押し込んだのも、その商会の口利きだったと伺いました。……名の無い贈り主の荷を運ばせて、着く前からこの土地の食べ方をあなたに教えていた。その商会を」


     *


 あとは、早かった。


 女衆のうち三人が、あの男が椀を配ったのを覚えていた。誰の前に置いたかまで。祭りの席で誰が誰に何を出したかを、この土地の女衆はみな覚えているのだそうだ。ハンナが「うちの村でもそうです」と言った。


 荷車に残った包の、掛け直された結び目。道中で御用の荷に触れられるのは頭と、頭に断って触る者だけで、頭は触らせていない。


 男は何も言わなくなった。名も、雇い主も、最後まで言わなかった。代官様が縄をかけるまで、ずっと自分の手を見ていた。


 私も、その手を見ていた。荒れていない手だった。塩を扱う者の手でも、峠を越える者の手でもない。


 嘘つき茸、とハンナは言っていた。食べられるほうと、そっくりなのだと。


 けれど、まだ残っていた。


 私は代官様を見た。


「代官様。この荷は、いつ御用に加わりましたの」

「……道が開く前に、王都から報せがございました」

「その報せは、帳面に残っておりますね」


 代官様が、はじめてこちらの目を見た。


「奥方様。証拠もないのに、領の役人をお疑いになると仰るのか」


 ――ああ。


 同じことを言われたことがある。


 三年目の春に、父を通じて、正式に訴えたときだ。返ってきたのは、寵姫の男爵令嬢を陥れようとする悪女の讒言、という裁定だった。あのときも、たしかこんな形の言葉だった。証拠もないのに、と。


 あのとき、私の訴えは握り潰された。


 いまは、握り潰されない。


 それは私が正しくなったからではない。ただ、立場が変わっただけだ。同じことを同じように申し上げているのに、今度は通る。


 ――だから、怖い。


 けれど、いまは使う。


「証拠のないことを申しているのではございません。帳面を見せていただきたいと申しております」

「帳面は、領の……」

「見せろ」


 夫が、はじめて口を開いた。


 黒衣の背が人垣の後ろから一歩前へ出た。それだけで、広場の空気が動いた。


 峠の関で、通る荷と宛先を書き留めるのは番人の役目だ。代官様の手は、そこには届かない。


 帳面が運ばれてきた。


 道が開く前の報せは、どこにも書かれていなかった。


 書かれていたのは、去年の秋、道が閉じる間際の一行だけだ。王都の商会から、領ではなく、代官様個人へ。品目は無い。数だけが書いてある。


「代官様は、道が開く前に王都から報せがあったと仰いました。……その報せは、どこにも」


 代官様は答えなかった。


「これは、何の数でございますか」


 代官様は答えなかった。


「毎年こうして通っております、とも仰いましたね。……その毎年の記録は、どちらに」


 答えなかった。


 私は、少しだけ間を置いた。


「代官様が毒のことをご存じだったとは、思っておりません」


 本当に、そう思っている。


「ご存じなかったのでしょう。名の無い荷を御用として通す。その見返りに、いくらか受け取られた。それだけのことでございましょう。……けれど、そのおかげで、あの方は死にかけました」


 診療所で、まだ起き上がれない大きな身体のことだ。


「そして今朝、私の夫が、同じものを口にするところでした」


 代官様は、その日のうちに役を解かれた。


 領の帳面をひととおり検めるまで、屋敷から出さないことになったと、あとで聞いた。


 王都まで糸は伸びている。けれど、ここで切れている。


     *


 その夜、食堂に湯気の立つ皿が並んだ。


 マルセルの根菜の粥だ。塩が多い。


「十八回目は、こちらで止めました」


 私が申し上げると、夫は匙を止めた。


「そうか」

「まだ十九回目がございますでしょうけれど」

「あるだろうな」

「そのときも、こちらで止めます」


 夫は匙を置かなかった。粥はもう半分になっている。


「アレクシス様」

「なんだ」

「私、今日、人をひとり潰しました」


 夫の手が、止まった。


「あの方がなさったことは、本当でございます。けれど、同じことを私が王宮で申し上げたときは、誰も聞いてくださいませんでした。……いまは、聞かれるのです。申し上げる中身が変わったからではなく、私の立場が変わったから」

「それが嫌か」

「怖うございます」


 少し間があった。


「怖いと思ううちは、たぶん、大丈夫だ」


 慰めではない。この人は見たままを言っているだけだ。そういう人だと、この半年で分かってきた。


 夫はしばらく粥を見ていた。それから、口へ運んだ。


 見張らずに。確かめずに。


「頼む」

「謹んで、お受けいたします」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。