第三話 誰も、火にかけておりません
屋敷へ戻ると、ハンナが門のところで待っていた。
「誰も開けてません。マルセルさんが、荷の前に椅子を置いて座ってました」
「座って」
「『開けるなと言われたなら、開けさせない』って」
厨房へ下りると、その椅子はまだ荷の前にあった。麻布に包まれた燻製の包が一つ、床几の上に載っている。
「奥方様」
マルセルが立ち上がった。五十を過ぎた、大きな手の男だ。
「これは、いけないものでございますか」
「まだ分かりません。……確かめてもよろしいですか」
「どうぞ」
私は麻布を解いた。
冬を越した燻製が、幾枚も重なっている。色は悪くない。塩の吹き方も均一で、脂の照りも澄んでいる。煙の匂いの奥に、樅の樹脂の甘さはない。
――王都から来たもの。
私は小皿を借りて、一枚を置いた。それから、料理用の酒を少しだけ垂らした。
待つ。
脂が緩んで、酒が染みていく。
立った。
焦がした杏子に似た、甘い匂い。
「……マルセル」
「はい」
「この包は、あなたのお仕事に使う前で、よろしゅうございましたね」
「明日の朝に、と思っておりました」
明日の朝。
この人が作る皿を、夫は十八年、ただの一度も疑わずに食べてきた。厨房から出るもので、あの人が何も確かめずに口へ運ぶのは、この人の手を通ったものだけだ。
「マルセル。あなたは、この荷を疑いましたか」
「いいえ。御用の品でございますから」
そうだろうと思った。
この人が疑わないところへ、それは届いた。
*
「十八回目でございます」
書斎でそう申し上げると、夫はしばらく黙っていた。
「昨日ではなく、明日だったのか」
「はい。祭りの一枚は、効くかどうかの試しだったのだと思います。あの方は、その試しに当たってしまわれただけで」
夫は窓辺から動かなかった。
「北へは、それきり誰も来ないと思っていた」
「来たのは人ではなく、荷でございました」
黒い背中が、少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。
「明日、隊商の者を全員、広場へ集めてくださいまし」
「代官に言う」
「それから、祭りの支度を手伝った女衆の方々も」
「なぜだ」
「逃げ道を、先に塞いでおきたいのです」
*
翌朝、フランツが報せを寄越した。
頭が目を覚ました。まだ起き上がれないが、話はできる。
私は診療所へ寄った。大きな身体が寝台からはみ出している。
「奥方様……申し訳ねえ、俺の荷で」
「お身体のほうが大事でございます。ひとつだけ、伺わせてくださいまし」
「へえ」
「今年から入られた、あの若い方。あの方に、この土地の燻製の食べ方をお教えになりましたか」
頭は、しばらく天井を見ていた。
「……教えてねえ。道中は塩と鉄の話しかしねえ。食い方なんざ、着いてから覚えるもんだ」
「もうひとつ。御用の荷のことを、あの方にお話しになりましたか」
「話さねえよ。御用の品は頭が預かるもんで、下の者には触らせねえ」
私は礼を申し上げて、立った。
「奥方様」
頭が、天井を見たまま言った。
「あいつ、王都で乗ってきたんだ。荷積みの朝に、商会の口利きで。断れる話じゃなかった」
*
広場に、隊商の者が十一人。女衆が、来られた方だけで九人。代官と、フランツ。
夫は、少し離れたところに立っていた。黒衣の背が高いので、どこにいても分かる。
私はあの若い男の前に立った。
「昨日、伺いましたね。この燻製は、酒に浸して戻してから火にかけるものだ、と」
「は。左様に申し上げました」
「どなたに教わりましたの」
男は、少しだけ笑った。
「頭から、と申し上げましたが」
「その方は、教えていないとおっしゃっています。道中は塩と鉄の話しかしない、と」
笑みが止まった。
「……覚え違いでございましょう。ひと月の道中でございます、皆さんにいろいろと教わりましたので」
「では、伺います」
私は隊商の方々を見渡した。
「この方に、この土地の燻製の食べ方をお教えになった方は、いらっしゃいますか」
誰も答えなかった。
十一人が、互いの顔を見た。それだけだった。
「……祭りの支度のときに、城下の方に伺ったのかもしれません。大勢いらっしゃいましたので、どの方かは」
「ハンナ」
「はい」
ハンナが一歩前へ出た。
「ゆうべのうちに、手伝った女衆の方みんなに伺ってきました。二十三人です。誰も教えてないって言ってます」
「……教わってはおりません」
男が言った。
「見たのでございます。振る舞いの席で、皆さんがそうしておいででしたから」
「浸すところまでは、ご覧になれたでしょうね」
私はそう申し上げた。
「けれど、祭りでは、燻製を火にかけた方は一人もおりません。浸したものは、浸したまま振る舞われました。火にかけるのは、家の竈での食べ方でございます」
男が、何か言いかけた。
「浸すのは見た、火は思いついただけ、と次は仰いますか。……最初は、まとめて頭から聞いたと仰いましたのに」
男は口を開いて、閉じた。
広場が静かになった。峠を吹き下ろす風の音だけがしていた。
男は、長いあいだ黙っていた。
逃げ道を数えているのだ、と思った。私も同じことをしたことがある。東屋の茶会の席で、何度も。数えても、たいてい一つも無かったけれど。
「……王都でございます」
男は、そう言った。
「荷積みのときに、商会の方に伺いました。北ではそうして召し上がるのだと」
私は頷いた。
そうしてくださると思っていた。どこかの、名も知らぬ誰かに聞いた。それが最後に残る逃げ道で、こちらから確かめに行けないのは、その通りだ。
だから、待っていた。
「では、あなたは荷を託した方をご存じなのですね」
男が、私を見た。
「あなたを隊商に押し込んだのも、その商会の口利きだったと伺いました。……名の無い贈り主の荷を運ばせて、着く前からこの土地の食べ方をあなたに教えていた。その商会を」
*
あとは、早かった。
女衆のうち三人が、あの男が椀を配ったのを覚えていた。誰の前に置いたかまで。祭りの席で誰が誰に何を出したかを、この土地の女衆はみな覚えているのだそうだ。ハンナが「うちの村でもそうです」と言った。
荷車に残った包の、掛け直された結び目。道中で御用の荷に触れられるのは頭と、頭に断って触る者だけで、頭は触らせていない。
男は何も言わなくなった。名も、雇い主も、最後まで言わなかった。代官様が縄をかけるまで、ずっと自分の手を見ていた。
私も、その手を見ていた。荒れていない手だった。塩を扱う者の手でも、峠を越える者の手でもない。
嘘つき茸、とハンナは言っていた。食べられるほうと、そっくりなのだと。
けれど、まだ残っていた。
私は代官様を見た。
「代官様。この荷は、いつ御用に加わりましたの」
「……道が開く前に、王都から報せがございました」
「その報せは、帳面に残っておりますね」
代官様が、はじめてこちらの目を見た。
「奥方様。証拠もないのに、領の役人をお疑いになると仰るのか」
――ああ。
同じことを言われたことがある。
三年目の春に、父を通じて、正式に訴えたときだ。返ってきたのは、寵姫の男爵令嬢を陥れようとする悪女の讒言、という裁定だった。あのときも、たしかこんな形の言葉だった。証拠もないのに、と。
あのとき、私の訴えは握り潰された。
いまは、握り潰されない。
それは私が正しくなったからではない。ただ、立場が変わっただけだ。同じことを同じように申し上げているのに、今度は通る。
――だから、怖い。
けれど、いまは使う。
「証拠のないことを申しているのではございません。帳面を見せていただきたいと申しております」
「帳面は、領の……」
「見せろ」
夫が、はじめて口を開いた。
黒衣の背が人垣の後ろから一歩前へ出た。それだけで、広場の空気が動いた。
峠の関で、通る荷と宛先を書き留めるのは番人の役目だ。代官様の手は、そこには届かない。
帳面が運ばれてきた。
道が開く前の報せは、どこにも書かれていなかった。
書かれていたのは、去年の秋、道が閉じる間際の一行だけだ。王都の商会から、領ではなく、代官様個人へ。品目は無い。数だけが書いてある。
「代官様は、道が開く前に王都から報せがあったと仰いました。……その報せは、どこにも」
代官様は答えなかった。
「これは、何の数でございますか」
代官様は答えなかった。
「毎年こうして通っております、とも仰いましたね。……その毎年の記録は、どちらに」
答えなかった。
私は、少しだけ間を置いた。
「代官様が毒のことをご存じだったとは、思っておりません」
本当に、そう思っている。
「ご存じなかったのでしょう。名の無い荷を御用として通す。その見返りに、いくらか受け取られた。それだけのことでございましょう。……けれど、そのおかげで、あの方は死にかけました」
診療所で、まだ起き上がれない大きな身体のことだ。
「そして今朝、私の夫が、同じものを口にするところでした」
代官様は、その日のうちに役を解かれた。
領の帳面をひととおり検めるまで、屋敷から出さないことになったと、あとで聞いた。
王都まで糸は伸びている。けれど、ここで切れている。
*
その夜、食堂に湯気の立つ皿が並んだ。
マルセルの根菜の粥だ。塩が多い。
「十八回目は、こちらで止めました」
私が申し上げると、夫は匙を止めた。
「そうか」
「まだ十九回目がございますでしょうけれど」
「あるだろうな」
「そのときも、こちらで止めます」
夫は匙を置かなかった。粥はもう半分になっている。
「アレクシス様」
「なんだ」
「私、今日、人をひとり潰しました」
夫の手が、止まった。
「あの方がなさったことは、本当でございます。けれど、同じことを私が王宮で申し上げたときは、誰も聞いてくださいませんでした。……いまは、聞かれるのです。申し上げる中身が変わったからではなく、私の立場が変わったから」
「それが嫌か」
「怖うございます」
少し間があった。
「怖いと思ううちは、たぶん、大丈夫だ」
慰めではない。この人は見たままを言っているだけだ。そういう人だと、この半年で分かってきた。
夫はしばらく粥を見ていた。それから、口へ運んだ。
見張らずに。確かめずに。
「頼む」
「謹んで、お受けいたします」




