第二話 帳面は嘘をつきませんの
翌朝、フランツが屋敷まで上がってきた。
「生きてる」
開口一番にそう言って、彼は帽子を脱いだ。
「夜通し粉を溶いて、匙で少しずつ含ませた。明け方に脈が戻って、いまは眠ってる。目を覚ますかどうかは、まだ分からん」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いじゃない。あんたが粉を出さなけりゃ、俺は古い樽の手当てをして、あの男を朝までに殺してた」
フランツは椅子を勧められる前に座り、出された茶を一息で飲んだ。硬水で淹れた、この土地の濃い茶だ。渋みが舌の奥に残る。
「奥方様。ひとつ訊いていいか」
「どうぞ」
「なぜ分かった」
私は少し考えて、正直に答えた。
「匂いでございます。夜苦草の根は、水では香りません。酒に落ちたときだけ、焦がした杏子のような匂いが立ちます。……五年で三十二の毒を受けましたけれど、いちばん多く含まされたのが、この根でございました」
フランツは私の顔を見て、それから手元の茶碗を見た。
「あんた、それを全部飲んだのか」
「いいえ。含んで、飲む前に吐きました」
「含んだのか」
「含まなければ、分かりませんもの」
彼はしばらく黙っていた。
「それを、五年」
「はい」
フランツはそれきり訊かなかった。
*
「調べます」
夫にそう申し上げると、彼は書斎の窓辺から振り返った。
「城下の者が倒れただけだ、と代官は言っている」
「代官様は、匂いを嗅いでおられません」
「そうだな」
それだけ言って、夫はしばらく黙った。
十七回。
この人が自分で数えている数だ。八つの菓子から、去年まで。北へ来てからの半年は、何も起きていない。
起きていないのではなく、書かれていないだけかもしれない、と私は思った。
「一人で行くな」
「はい」
「マルセル以外の皿は食うな」
「……アレクシス様」
「なんだ」
「それは、あなたがずっと守ってこられた決まりでございますね」
夫は答えなかった。答えなくてよかったのだと思う。私もそれきり訊かなかった。
*
城下の広場に、隊商の荷車が四台停まっていた。
代官様が立ち会い、隊商の者たちが荷を下ろしている。頭が倒れたので、彼らは足止めを食っていた。峠を越えたばかりで、帰ることもできない。
王都を出て、南の町を幾つも回りながら北へ上ってくるのだそうだ。最後の峠を越えるまでにひと月かかると、ハンナに聞いていた。
「奥方様、これは領の仕事でございます。奥方様がなさることでは」
「ええ。ですから、見るだけにいたします」
代官様は五十がらみの、恰幅のいい男だ。私が輿入れした日から、この人はずっと同じ顔をしている。丁寧で、隙がなく、一度もこちらの目を見ない。
「代官様は、昨日のことを事故とお思いですか」
「フランツ先生がそう仰いました」
「私は、毒だと申し上げました」
代官様は、少しだけ笑ったようだった。目は合わないままだった。
「奥方様は、王都からいらしたばかりでございますから。……北の春は、毎年こういうものでございます」
私は荷の目録を見せていただいた。
紙が三枚。品目と、数と、託した者の名。王都の商会の判が捺してある。
――帳面は嘘をつきません。
嘘をつくのは、帳面と荷が合わないときだ。
塩、鉄物、南の乾した果実、布。それから最後の一行に、こうあった。
燻製 二包 大公家御用
私は荷車を順に見た。麻布に包まれた燻製は、一包しかない。
「あと一包は、どちらに」
「……ええと、昨日のうちに、お屋敷へ」
隊商の若い男が答えた。
「道が開いた日は、まず御用の品からお届けするのが決まりでして」
私はその若い男を見た。日に焼けていない。峠をいくつも越えてきた者の顔ではなかった。
「ひとつ伺ってもよろしい? この燻製は、どのように召し上がるものですの」
「は。冬を越したものは硬うございますから、酒に浸して戻してから火にかけるのが――」
男はそこで言葉を切って、少しだけ笑った。
「と、頭から聞いております。私は南の生まれですので」
なるほど、と私は申し上げた。その通りだと思ったからだ。
この土地の者なら、わざわざ言葉にしない。
*
残った一包を、私は近くで見せていただいた。
麻布は峠の埃を吸っていて、指の腹に乾いた粉が残った。鼻を近づけると、煙の匂いがする。布まで移るほど、長く燻したものだ。
結び目が、二重になっている。ひとつは荷造りのときの固い結び。もうひとつは、その上から掛け直した緩い結びだ。
――一度、解かれている。
中の枚数は、目録に書かれていない。包でしか数えていないから、何枚抜かれても帳面は合ったままになる。
それから、もうひとつ腑に落ちないことがあった。
燻製。
この土地は、燻製の土地だ。冬のあいだ食べるものの半分は、煙にかけて吊るしたものでできている。塩も自前で出る。岩塩を売って穀物を買うのがこの領の商いで、燻製は買うものではなく、売るものだ。
その領へ、王都から燻製を運んでくる。
「代官様。大公家は、王都から燻製をお取り寄せになりますの」
「……いいえ。聞いたことがございません」
「では、これは」
「贈り物か、献上か。そのどちらかかと」
「贈り主のお名前が無いのに、御用の品として通りますの」
「……御用の判がございますから」
代官様は、目録の端を見ながら言った。
「王都の商会の判でございます。荷は毎年、こうして通っております。奥方様がお気になさるようなことは、何も」
私は目録の最後の一行を、もう一度読んだ。
託した者の欄には、王都の商会の名と判があるだけで、贈り主の名は無い。
目録を代官様の手へお返しして、私は広場を出た。
*
「あの人、今年から入ったんですって」
ハンナが、後ろから追いついてきて言った。この娘は誰にでも話しかけられる。
「振る舞いのとき、樽から椀へ移すのを手伝ってた人です。城下の女衆が『助かった、人手が足りなかったから』って。……でも、うちの村の誰も、あの人のこと知らないんですよ」
「隊商の方でしょう」
「そうなんですけど、隊商って毎年おんなじ顔ぶれなんです。峠を越える道を知ってないと来られないから。今年から入った人がいるのは、珍しいって」
私は振り返って、広場を見た。
昨日、樽から椀へ移す手を、私は目で追っていた。追ったから、あの椀が十八の樽から満たされていないと分かった。
けれど、誰の手だったかまでは見ていない。
――見ていたのに、見ていなかった。
私は自分の迂闊さを、たぶん一生忘れないだろうと思う。
*
「毒だったのは認める」
診療所へ寄ると、フランツはそう言った。眠っている男の唇に、彼は匙をあてている。
「俺が診立てを外したのも認める。だが奥方様、誰が入れたかは医者の仕事じゃない。俺は身体から入る。あんたは皿から入る。皿の先に人がいるなら、そっちはあんたの領分だ」
「……ええ」
「代官に言うのか」
「まだ、何も申せません」
目録の一行が、頭から離れなかった。
燻製 二包 大公家御用。
荷車に残った一包は、一度解かれている。そこから幾枚か抜いて椀へ移せば、帳面の上では何も起きない。
では、対の一包は。
道が開いた日には、まず御用の品からお届けするのが決まりだという。
昨日のうちに、屋敷へ。
屋敷へ入る荷は、みな家令の手を通る。判のある品は、蔵へ納める前に目録と突き合わせて、屋敷の帳面へ書き写す。あの帳面を付けているのは、あの人ひとりだ。
私は立ち上がって、戸口のハンナを呼んだ。
「先に屋敷へお戻りなさい。昨日届いた御用の荷には誰も手を触れないよう、マルセルへ伝えてくださいまし」
「え、あの、何かあるんですか」
「まだ分かりません。分からないうちは、開けないほうがようございます」
一人で行くな、と言われている。けれど、いま急ぐのはこちらだった。
ハンナが駆けていく足音を聞きながら、私はフランツへ向き直った。
「フランツ先生。お帰りに、屋敷まで送っていただけますこと」
「送るよ。あんた一人で歩かせる気はない」
「ありがとう存じます。……それからもうひとつ。この方が目を覚ましたら、すぐ報せてくださいまし」
「何を訊く気だ」
「荷のことを、どなたにお話しになったか」




