第二十一話
微かに揺れる蝋燭の炎。
小さな明かりに照らされながら、数日間掛けてやっと力加減を間違うことなく濡れるようになった軟膏。
「…………痛みはないか」
「有りません。
……もう、王弟殿下の手を煩わせなくとも大丈夫かと思うのですが……?」
「…………痣が有るうちは来る」
「……ありがとうございます」
大人しく軟膏を塗られながら、明葵は心の中でため息を付く。
「(……放っておいてくれる方が、華乃ちゃんや龍理さま達と一緒に過ごせるから嬉しいんだけどなぁ……)」
数日前に刻まれた腕の痣。
毎日、軟膏を塗り続けたお陰か、だいぶ色も薄くなっていた。
「……俺が来るのが苦痛か?」
「……え?」
低い声。
拗ねた子供のように逸らされた視線。
「……お前にとって……俺の存在は苦痛か、と聞いている」
「…………」
小さな蝋燭の炎。
夜の闇の中では、影がより色濃く見える。
「…………」
明葵は、答えに迷う。
昨日までの明葵ならば、否定するだろう。
でも……明葵の本心を答えるならば……。
「……苦痛です、と答えたら……」
明葵の視界の端で白い尻尾が揺れる。
「そうすれば、王弟殿下は来ないで下さるのですか?」
「…………っ」
「……霊山でも、怖いから来ないでと言ったのに……王弟殿下は、いらっしゃいました。」
「…………」
責めている訳ではないのだろう。
ただ、淡々と事実だけを並べている明葵の言葉。
「……私は、貴族が怖いです。」
己も貴族の一人のくせに可笑しな話だけれど。
「己を特別と思った人間は……とても、残酷になれる」
思い出すのは、街の様子。
ただ、そこにいた。
ただ、貴族の機嫌が悪かった。
ただ、視界に入り、認識されてしまった。
「何も、していないのに……暴力を振るい、簡単に命を奪う。
……そんな貴族を掃いて捨てるほどに見てきました。」
甚振られる子供を。
嬲られる若い女を。
目の端に見付けて、助けようと思わず動いた明葵を引き留める腕。
「中級貴族なんて、看板は無意味です。
高位の貴族のお遊びを止めようとしても、止められない。」
見てしまったことを、見なかったフリは出来ない。
それが生まれ持っての明葵の性分だ。
「……だからこそ、父は私に……雨が降らなくなった王都へ行くことを禁じました。」
雨が降らない。
飢えと乾きに荒んでしまった人々の心。
「私の居場所は、霊山だけです。」
どんなに鍛えようとしても、筋肉の付かない……この身体。
どんなに武術を磨こうとしても……男の力には敵わない。
「私は王弟殿下が怖いです」
「…………」
そのような真似はしない、と口から出そうになった声が喉の奥で止まる。
……意図せずとも、彰玄よりも立場の弱い明葵を傷付けた。
「王弟殿下の持つ……権力が怖い……」
目の前の男が、凛へ一言命じるだけで良いのだ。
そうすれば……明葵が泣いて叫んでも、明葵の大切な人達の命を奪えてしまう。
……龍理や鬼星が居なければ、だが。
「私の大切な家族を簡単に奪えてしまう、王弟殿下の立場が……私は恐ろしいのです」
「…………」
明葵の言葉に、彰玄は答えられない。
彰玄の在り方を証明できない言葉など、何の意味がある?
どんなに真実を百の言葉で並べても、行動で示さなければ明葵は納得しないだろう。
「……俺の持つ権力が恐ろしいと言ったな」
「っ……はい」
昨日までとは違い、逸らされることの無い瞳。
彰玄から瞳を逸らさないならば……好都合だ。
「恐ろしいのは、俺の持つ権力で有って"俺"では無いと受け取る。」
「……え……?」
「ならば……行動で示すのみだ。」
彰玄の返答にキョトンとした表情の明葵に、笑ってしまう。
「……俺は、咎なき者に権力を持って甚振る真似は好まぬ。
だが……凛に言わせると言葉が足りぬらしい。」
真っ直ぐに明葵を見詰める。
「……事実、お前を傷付けるつもりは無かったのに……怪我をさせてしまった。
守りたい、という気持ちで保護したが……お前を怯えさせてしまっては意味がない。」
言葉が決定的に足りなかったゆえの擦れ違い。
「お前との霊山での会話も……小気味よく、楽しかったのだ。」
王城で味わうことの無かった打てば響くような会話。
"王弟"ではなく"彰玄"……それが、面白かった。
「……玉座の間でも俺の持つ"地位"に驚かせ、不安にさせたこと……すまなかった。」
許せとは言わぬ、と続ける彰玄に明葵は呆然としている。
「……だから、行動で示す。
その先で、少しでも白 明葵……お前の信頼を得ることが出来るように努力することを誓う。」
あまりにも真っ直ぐで、武人らしい愚直な誓い。
「……王弟殿下は……変わった御仁ですね……」
「お前に言われたくはない」
「そうですね……ふふ……!
私も、貴族の娘らしくないと叱られていましたもの」
クスクスと花が綻ぶように。
初めて彰玄との会話で微笑んだ明葵。
「(…………笑った……)」
ドクンっ!と胸が高鳴る。
何故か、頬に集まる熱。
「(……何故、身体が熱くなる?
風邪でも……いや、この数年……そのようなことは無かった……)」
内心で首を傾げる。
しかし……今はもう少しだけ、明葵の優しい微笑みを見ていたいと彰玄は思うのだった。
昼間は慌ただしく医務官が行き来する医務所。
夕刻にもなると、訪れる人の数は減り、少しだけ静かになる。
「……これくらいで、良かろうな」
乾燥した薬草をすり潰し、軟膏に混ぜる作業をしていた中年の医務官。
軟膏が滑らかになったことを確認し、専用の容器に詰めていく。
王弟殿下に渡すからこそ、決して間違えないように容器を小さな木箱に入れようとした瞬間。
「すみません……また、良いでしょうか?」
戸口から声が掛かる。
「おや、アンタかい。」
戸口には、人好きのする笑顔を浮かべた小柄な下男がいた。
「へい。
そのぉ……草を刈る作業をしていましたら、肌が爛れちまって。
何か、余ってる塗り薬でも、貰えないかなぁ……なんて思いやして。」
ヘラりと、笑いながら出した前腕には赤く爛れたような跡。
「こりゃ、酷いな。
春先にもなると毛虫も出るからねぇ」
「そうなんでしょうねぇ。
草刈りに夢中で全く気が付けなくて、こんなことに……」
「真面目なアンタらしいな。
おや……さっきまで作業をしていたのか?
汗がすごいな……顔色も、悪いような……?」
下男の額に滲む汗。
薄暗くなり始めた夕刻だからか?
はっきりと断言できないが、顔色も優れないように見えた。
「へへっ。
ついさっきまで作業に励んでいたもので。
夢中になっていたら、みんなに置いていかれちまって。」
「そうか……春先だからまだいいが、夏場は夢中になり過ぎて倒れないでくれよ」
中年の医務官は苦笑して、下男へ背中を向ける。
台の上に置かれた軟膏の容器。
「……この軟膏は、何の薬ですかい?」
「それは、駄目だ。
高貴なお方にお渡しするものだからね。」
アンタにはコッチだ、と振り向きざまに渡された軟膏。
「お手を煩わして、すみませんでした。」
「良いよ。
アンタには世話になっているからね。」
人に好かれやすい笑顔の下男が去って行く。
「さて、これで明日の朝用の軟膏は出来た。
後は、夏侯様にお持ちすれば今日は終いだな」
木箱を厳重に紐で結んだ医務官。
それを持って夏侯様、凛の元へと医務所を後にする。
「…………」
その医務官の姿を、立ち去ったはずの下男が静かに見詰めているのだった。
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