第9話「肋を折った男が、頼みに来た」
朝は、起き上がるところからが仕事になった。
右の肘を先に立てる。腰をずらす。それから息を吸う。順番を間違えると左の下で何かがずれて、目の前が白くなって、はじめからやり直しになる。三日で入れた無理は、三日では抜けないものらしい。
村長が納屋の隅を空けてくれた。藁が新しくて、麦の匂いがする。借りるつもりで来たわけではないのに、この村ではもう、二人ぶんの寝床が当たり前に用意されている。
水が来てから初めての朝で、外では女たちが洗い物をしていた。二人で喋りながらやっていて、喋るほうが忙しい。水のある村は、朝からうるさい。
村長が様子を見に来た。手を前で組んだきり戸口に立って、それだけで帰る。
トトは日が昇る前に呼ばれて出ていった。溝の細いところに手を入れられるのがこの子だけだからだ。大人の腕は肘で止まる。一度戻ってきて、粥を食って、また出ていった。
村の男たちは、この子を名前で呼ばない。細いの、と呼ぶ。呼ばれるたびに返事をして走っていくので、腹を立てているのはわたしだけらしい。
「おばさん、今日は座れた?」
「座れた。立てない」
「なんだ、半分じゃん」
半分だ。半分でも、粥をよそう役は回ってくる。杓子を持つのは右手で足りるし、鍋の底のほうから混ぜないと下だけ焦げるということは、腕が上がらなくても言える。
昼前に、戸口の光が下から潰れた。
人が一人ぶん立ったのとは形が違った。上のほうが横に膨らんでいて、その膨らみに腕が二本、下から回り込んでいる。逆光で、はじめは荷を担いだ行商かと思った。
「先生」
立てないので、諦めた。藁の上で背筋だけ伸ばした。逃げられないときは、せめて座り方を選ぶ。
「ここの水は、あなたですか」
「違う」
「村の者は、旅の女が来てから出たと言っていましたが」
「男たちが石を運んだの。わたしは置く場所を言っただけ」
ザンドは戸口をくぐって、背中のものを藁の上へ下ろした。膝から先に、頭をいちばん最後に。ずっと同じ順番で下ろしてきた手つきだった。
女だった。若い。目は開いていない。唇が乾いて、ふちが白く粉を吹いている。片方の足に靴が無くて、その足の裏だけが、ほかのどこよりも黒かった。
痩せた病人の顔は、誰でも途中から似てくる。頬の肉が先に落ちて、鼻の骨だけが残る。もとの顔を覚えているのは、たぶん背負ってきた男だけだ。
「妹です」
「よくここが分かったね」
「こいつが言いました。谷の村だと。……熱で、ずっと喋っていましたから」
聞き返さなかった。聞き返せば、答えが返ってくる。
「座れば。茶は出ないけど」
ザンドは妹の横に膝をついたまま、上着の袖で口の端を拭った。丁寧だった。この男は何をするときも丁寧で、人を抱きしめるのも、人の肋を折るのも、同じ速さで動く。
「先生。あの水は、使わずに出したんですか」
「石と粘土」
嘘ではない。石と粘土と、村の男たちの腕と、細い腕が一本。そう言ってやったところで、この男が聞きたいのはそこではない。
「使わずにやれるんですね」ザンドは笑った。心から嬉しそうな笑い方だった。「では、なぜ、うちのときは使ったんですか」
返せる言葉が無かった。あのときは坑に人が埋まっていて、夜で、急いでいた。急いでいた、というのが本当のところで、本当のところは、口に出すと嘘みたいに響く。
「継ぎの手を、使ってもらえますか」
「使わない」
間を空けなかった。空ければ、考えたことになってしまう。考えたことにすると、次からは毎回、考えなければならなくなる。
「産婆が手順を忘れます。折れた骨は繋がらなくなる。膿めば死ぬし、難産は死ぬ。次の冬に、こいつと同じ年ごろの女が、どこかで同じように死にます」
ザンドは早口ではなかった。買い物の勘定を読み上げるみたいに、一つずつ間を空けて言った。
「承知しています。俺の一族のときは、誰も承知していませんでした。今度は俺が承知します。だから、してくれませんか」
この村にも産婆がいる。水運びの列のいちばん後ろにいた、腰の曲がった人だ。ザンドはその人を見たこともないのに、いま、きちんと勘定に入れた。
「おっさん」
「先生、俺は矛盾していますか」
「してない」
本当にそう思った。この男は三年前から同じことしか言っていない。人を返せ、と言っている。広場でもそう言ったし、いまもそう言っている。向きが変わっただけだ。
「謝りませんよ」ザンドの顔は笑いのままで、下のまつげのところだけが濡れていく。「読み上げたぶんは、一つも取り下げません。ネイ・ザンドは、冬のあいだこいつを毛布ごと抱いて寝ていました。あの冬に残ったのは、俺とこいつだけです。……あなたを許してもいません。許していない相手に頼むというのは、こういう顔でやるものらしい」
戸口が鳴って、トトが入ってきた。桶を置く音がした。
この子は何も聞かずに、丸めた上着を女の頭の下へ差し入れた。それから布を濡らして、乾いた唇に当てた。当てて、離して、また濡らす。頼んだ者はいない。手のほうが先に動く子になったのは、この村へ来てからだ。
指の腹が割れているので、布を絞るのに手間がかかる。絞りきれなかったぶんは、袖に吸われる。
「きみ」ザンドがトトを見た。「継ぎの手の、長いほうの名前を、きみは覚えているでしょう」
布から水が落ちて、女の首のところに丸い染みができた。
「言ってくれませんか。先生は、名前が無ければ使えない。きみが言えば、使えるようになる」
トトの目が、こっちへ来た。
わたしは藁の目を見ていた。長いほうの名前は、この耳が持っている。トゥーリの井戸端で、この子が節にして唱えていたやつだ。熾しの手から数えて、三つ目に来る。
訂正はしなかった。止めているのは名前だと、この男は考えている。そう考えていてくれるほうが、わたしは少しましな人間に見える。ミナの工房で黙っていたときと、やっていることは変わらない。
トトは布を絞り直して、また唇に当てた。口は開かない。わたしの側からも、この子には頼まなかった。
「先生。左は痛みますか」
ザンドは手を自分の脇に当ててみせた。わたしの折れているほうだった。指の位置まで合っている。折った本人なのだから、当たり前だ。
「一度で済む話でしょう。あなたと、こいつと。ついででいいんです。ついででかまわない」
左の下が、そこだけ勝手に痛くなった。指で場所を教えられると、そこだけ痛くなる。体はそういうふうにできている。
「使わない」
二度目のほうが声が小さかった。理由は言わなかった。
ザンドはすぐには動かなかった。それから妹を膝で起こして、その腕を自分の首へ掛けて、背中に乗せ直した。立ち上がるときにだけ、短い声が出た。重いものを持ち上げる人の声だった。
昨日の晩、わたしはこの形で運ばれた。腕を首に回してもらって、歩幅の合わないまま、村のほうへ。運ぶほうが小さかった。今度は運ぶほうが大きくて、運ばれるほうが死にかけている。同じ形でも、前から見るとまるで違う。
「また来ます」
ザンドは戸口で一度止まった。光がまた、下から潰れた。
「おっさん」
背中が止まった。
「その人、名前は」




