第10話「言わないでと言ったのはわたしだ」
産婆は、布を巻く順番を変えない。
下から二周まわして、上へ返して、最後に肩のところで端を折り込む。折り込むあいだだけ、声を出さずに口が動いている。糸は針を刺す前に通しておくものだ。刺してから思い出しても、もう遅い。順番のあるものは、狂えば、そのあと何をしても同じになる。
「息は浅くしときな。深く吸うと痛いだろ」
「浅くしてる」
「あんたのは場所が悪いよ。肋は、継げる人でも面倒がるところさ」
この人は継ぎの手を少しだけ使う。生まれるときの血を止めるくらいなら、と本人が言っていた。骨はちゃんとした人でないと駄目で、この村にちゃんとした人はいない。
人が生まれる家では、この人が呼ばれる。呼ばれて、間に合わなかったこともあるらしい。それでも呼ばれる。ほかに呼ぶ相手がいないからだ。
今朝は壁を伝って立てた。立てるところまでで、そこから先は左が許さない。水の来た村は朝が長くて、桶の音が二度、三度と重なって聞こえる。
巻き終わると、産婆はトトの手を取った。割れた指の腹が、まだ塞がらない。爪の生えぎわのあたりまで白い。
産婆はその割れ目の上を、上から下へ二度なぞった。名前は言わない。指の順番だけだ。血の色が薄くなって、それきりになる。
「夕方にもう一度来るよ。汗で緩むからね」
産婆が出ていくと、トトが藁の上に座り直した。膝を抱えて、爪の白いところを見ている。今日は呼ばれていない。溝の石が据わって、細い腕でないと届かない場所が無くなったからだ。
「あのおっさん、また来るって言ったよね。来たらどうすんの。おれ、外にいたほうがいい?」
「いなくていい。ここにいて」
日が傾くころ、戸口が塞がった。人の形をしていない塞がり方だ。
ザンドは背中の女を藁に置いた。膝が先で、頭が最後だ。そこは昨日と一つも違わない。
「先生。人が死ねば、その人が消したものは戻ってくる。そういう話を、聞いたことがありますか」
「どこの町にでもある話でしょ」
「聞いたことがありますか、と聞いています」
「ある。本当かどうかは知らない」
誰から聞いたのかは訊かなかった。訊けば言うだろうし、言われれば、その相手のことを考えることになる。この男の連れてくる話には、いつも人がぶら下がっている。
ザンドはうなずいた。うなずいてから、言い忘れていたぶんを足した。
「昨日、名前を訊かれました。リセです」
リセ、と口の中で言ってみた。人の名前というのは、術の名前より短い。
「治療師には見せました。血は止めてくれます。中までは継げないそうです。……もう一度だけ、頼みます」
「使わない」
三度目は、声というより息だった。息のほうも底が見えている。
「そうですか」
ザンドは上着の袖を肘までまくった。まくるあいだも、こっちを見ていた。丁寧な男は、丁寧なまま次のことをする。
「痛いのは嫌でしょう。すぐ済ませます」
肩を押された。藁は薄くて、下は土で、その下に臼が埋めてある。倒れたときに右手がそのあいだへ入った。抜こうとしたところへ膝が乗って、指のほうで乾いた音が二回した。
そのあと、首に手がかかった。
力の入れ方まで丁寧だった。ゆっくり体重を移して、途中で一度だけ、指の位置を直した。
両手で外そうとした。右のほうは、動けと言っても形が変わらない。左は袖を掴んだが、掴んでも、この男の腕は肘から先が動いていない。動かしているのは肩でも腕でもなくて、上に乗っている重さだった。
音が遠くなった。桶に水を張って顔をつけると、外の音は消えるのではなくて、遠いところで鳴りつづける。あれと同じだった。トトの声も、その向こうにあった。
自分が吸っているのか吐いているのか、途中で怪しくなった。吸ったつもりのものが出ていくのか、出ていくものを吸っているのか。梁が二本に見えて、それから、明るいところがだんだん小さくなった。
名前は耳にあった。ずっとあった。井戸端の節の、熾しの手から三つ目のところに。ただ、言うには息がいる。決めるにも息がいる。
わたしは決めなかった。
「〈骨継ぎの手〉!」
首の手が止まった。
声は、意味より先に届いた。名前だと分かったのは、あとからだ。二年ずっと聞いてきた節の、その一箇所だけが切り取られて飛んできた。
ザンドが顔を上げていた。この男が笑っていないのを、わたしは初めて見た。欲しかったものが先に来てしまった人の顔だった。
手が離れた。空気が入ってきて、入ってきたぶんだけ喉が焼けた。咳をすると左が割れる。それでも咳のほうは止まらない。
トトは戸口に立っていた。桶を提げたままで、その桶がまだ揺れている。走ってきて、置くのを忘れたらしい。
言わないで、と言ったのはわたしだ。この子は言った。わたしが決められないあいだに、決めた。
起き上がれないので、顔だけ横に向けた。女の顔がすぐそこにあった。口のふちの白い粉は、昨日より厚くなっている。
息を吸って、名前を言った。
女の胸が、さっきより深いところまで動いた。それだけだった。頬に色が戻って、白い粉のところが少しだけ濡れた。
町のときは音が鳴った。広場のときは煙が上がった。今度は、どこも動かない。人の中で起きたことは、外からは見えない。見えないものは、あとから来る。
「おばさんのは」
「わたしのは無理」
「なんで」
「はじめからそうなってる」
右手の指を動かそうとした。中の二本が動かない。動かせと思っているのに、思ったものが指まで来ない。首は、さわると縄の跡になっている。物干しの綱を握って引くと、掌に同じ形が残る。
ザンドは女を背負い直した。持ち上げるときの短い声も、昨日と同じだった。
敷居のところで足が止まった。背中の頭が、こっちを向いたまま揺れている。
「先生。俺はいま、何を買いましたか」
「知ってるくせに」
ザンドは出ていった。昨日この男が並べたものは、一つも減っていない。増えたぶんだけが、これから先、よその家に届く。
暗くなってから、産婆が布を替えに来た。
「あんた、それ」
わたしの首を見て、そこで手が止まっている。布はまだ持ったままだ。
「転んだ」
「そういう転び方は知らないねえ」
産婆はそれ以上は聞かない。村の人は、聞かないことを覚えている。水を待って暮らしてきた村だ。
巻き直してから、朝と同じようにトトの手を取った。割れ目の上を、上から下へ。
途中で止まった。
指が行き先を探して、爪の生えぎわのあたりで迷った。産婆は手を離した。一から同じ順にやって、同じところでまた止まった。
「暗いね。灯りが持たないから」
「いいよ。もう痛くないし」
トトが手を引いた。この子には、朝との違いが分からない。
その晩、トトは久しぶりに節を唱えた。言うなと言われたのを、自分でやめにしたらしい。節は熾しの手から始まる。二つ目まではいつもどおりで、そこから四つ目へ滑っていった。つんのめりもしなかった。
産婆は明日の朝も来る。明後日も来る。ザンドが妹を見せた治療師も、今夜からはたぶん、同じところで手を止めている。
そのうち、隣の家で子が生まれる。産婆はさっきと同じところで止まって、それから布を取りに立つ。
取りに行くあいだに、済んでしまう家もある。




