第11話「四年前にも、同じ名前を言った」
リセが目を覚ましたのは昼過ぎだったらしい。らしい、というのは、わたしはそのあいだ天井を見ていたからだ。今日わたしが自分の目で見たものは、天井の板と、戸口の四角い明かりと、動かない指の入った自分の右手だけになる。
起き上がるのは、右をどこにも突かずにやれば何とかなる。壁までは行ける。戸の外までは行けない。だから今日わたしが知っていることは、どれも人が運んできたものだ。
朝、産婆は布だけ巻いて帰った。トトの指には触らなかった。「今日はいいだろ」と言って、割れ目のほうを見もしない。割った皿を二度合わせてみて、合わなければ、三度目をやる人はいない。理由のほうは、あとから勝手に付いてくる。
昼前にトトが出ていって、昼過ぎに戻ってきた。溝の見回りに付いていったらしい。戻ってくるなり、藁の上へ膝で乗ってきた。息が上がったままだ。
「おばさん、水の道を人が上ってきた。ろば連れてた。塩と、針と、鍋。村に人が来るの、涸れてから初めてなんだって」
「たいしたもんだ」
「それでさ、その人が言ってたんだけど。トゥーリで、錠を掛けられる男がいるって」
「ふうん」
鍛冶がいれば閂も鎹もこしらえられる。術が無くなれば、人は道具を作る。世の中はずっとその順番で回ってきた。塩と針と鍋、それにその話。ろば一頭ぶんの世間だ。わたしはそれで済ませた。
ろばの男は今夜は村に泊まるという。水の出る村には、そういう人が寄ってくる。涸れているあいだは誰も寄らなかったから、村のほうが人の扱いを思い出しながらやっている。
同じころ、リセが起きたという話も村を回ってきた。大きい男が背負ってきた娘が、水を飲んで、坐ったと。誰のおかげだとも言われていない。産婆のおかげだと思っている人もいた。それでいい。
暗くなったころ、戸の明かりが真ん中だけ残して欠けた。
ザンドが先に入って、そのあとから娘が入ってきた。膝は笑っていて、戸の枠を掴まないと危ない。それでも自分の足だ。
「先生」
この男は笑っていた。目のふちのほうは濡れている。昨日欠けていたぶんが、まとめて戻ってきたような顔だった。
娘は藁のところまで来て、膝をついた。そうしてから、こっちの手を両手で挟んできた。右のほうを挟まれた。握り返せない指があるのは、この子には分からない。顔は濡れていて、鼻のほうもひどい。
「ありがとう」
手は引かなかった。引くほうにも力がいる。
口のふちに乾いてこびりついていた白い粉は、きれいに無くなっていた。頬のほうは、寝ていた日数のぶんだけ落ちている。人はこういう順番で戻ってくるものらしい。
人から礼を言われるのは、この十日でこれが二度目だ。一度目は宿の男で、湯の桶が片手では持てない重さだったときだ。二度目までは十日で、一度目までは四年あった。四年前のその日のことは、思い出さないことにしてきた。そのほうが荷が軽い。
「先生。腹に穴の開いた人間が、どのくらいもつか、ご存じですか」
「知らない」
「思ったより、もちます。もつぶんだけ、家の者が期待するので」
ザンドは娘の後ろに立ったまま喋った。掌のほうは背中に置いている。
「ラウ・ザンドといいます。俺の父です。四年前の暮れに、そうやって死にました。継げる人を、回れるだけ回りました。どこでも手が途中で止まったそうです。あのころから腕の落ちた人が多い、と皆が言っていました。歳のせいだろうと」
この男は、人の名前を先に置いてから、その人がどう死んだかを言う。いつもその順で、崩れたことがない。
ザンドは笑って、それから笑ったまま口を押さえた。押さえたところから音が漏れた。笑いのほうとは、出どころが別だ。
「先生。ゆうべこの子に使ったものは、俺の父には届かなかったものです」
四年前の暮れ。見たこともない家の床の前で、わたしは名前を一つ言った。翌る朝、同じように両手で挟まれて、礼を言われた。家の名も、その人の名も頭に無い。頭にあるのは術の名前のほうだけだ。
昨日の晩に言ったのと、同じ名前だった。
峠の夜、わたしは名前を言った。それきりで、あとが続かなかった。無いものを言えばそうなる。昨日は起きた。この子の息が、途中から深いところへ落ちた。だから昨日、あれは在った。四年前に消したものが、昨日は在った。
貸した鍋が、返した覚えのないまま棚に戻っている。そういうことが起きている。
トトの節にも入っていた。あの子の頭には、在るものしか残らない。わたしは二年ずっと毎晩それを聞いてきた。おかしいと思ったことは一度も無い。
「先生。どうかしましたか」
「なんでもない」
言えば、この男は昨日の晩に自分がやったことの値段を知る。人が死ねば戻る、という話も、たぶん一緒に崩れる。わたしは死んでいない。それでも戻っている。
言わなかった。鍵屋の工房のときも、ゆうべも、黙っている側にいる。
ザンドは娘の肩を押して立たせた。戸を出ぎわに、娘のほうだけが振り返った。男のほうは前を向いたまま言った。
「先生。ゆうべの勘定は、まだ済んでいません」
「知ってる」
二人が出ていった。外は、水路のほうで水が鳴っているほかに音が無い。涸れていたころは、この時刻まで人の声がしていたそうだ。水が来てから、村の夜は早い。
わたしはトトを呼んだ。
「昼間の、ろばの人の話。もう一回」
「トゥーリで錠を掛けられる男がいる。それだけだよ」
「掛けられる、って言った? 直せる、じゃなくて」
「掛けられるって。おれ、二回聞いたもん」
あの町で開けの手を消したのは十日前だ。四年ではない。十日だ。
掛けられる、という言い方は、鍛冶の仕事の言い方ではない。金具をこしらえた男のことなら、村の子は「戸が直った」と聞いて帰ってくる。ろばの男は、掛けられる男がいる、と言ったのだ。
「トト。節、やって」
この子は少し黙ってから、始めた。言うなと言った側は、まだ何も取り消していない。やめにしたのはこの子のほうだ。そこはもう、どちらも触らない。
唱える順は熾しの手が先で、二つ目のあとが四つ目になる。そこから先はいつもどおりだった。開けの手の名前も、伏せの手の名前も、この子の中には戻っていない。
戻ってきてはいる。この子のところではない。
どこへ戻っているのかは知らない。知らないままで寝てしまえる体でもない。
荷を寄せた。荷は少ない。逃げられる量しか持たないことにしているのに、片手で結ぶには多かった。紐は、ほどいた順と逆にたどると早い。右が握れないので、端は歯で押さえた。
「どこ行くの」
「トゥーリ」
「なんで」
「わたしが消したものを、誰かが使ってる」
トトは自分の荷を引き寄せた。何も聞かない。聞かないのは、この村で覚えたことだ。
トゥーリへは、来た道を戻ることになる。峠は越えられないから谷を回る。この体で坂を上がるところは、あとで考えればいい。
わたしの覚えている名前は、順番に並んでいない。消した順にも、言った順にも並べていない。並べないほうが都合がよかった。
その中に、同じ名前が二つある。




