第12話「あの坂は、下りるときは楽だった」
荷車の上は思っていたより跳ねる。桶は半分だけ水を入れて運ぶといちばん跳ねるものだけど、あれと同じだ。わたしは麻袋のあいだに体を落として、空だけ見ていた。
乗せてくれと頼んだのはトトのほうで、頼み方もこの子のやり方だった。おばさんが病人だから、と道の真ん中で言った。病人じゃない。折れているだけだ。
谷を回る道は、峠を越えるより遠い。遠いぶん、荷車が通る。荷車が通る道は、人に頼める道でもある。わたしにできるのは、頼まれた人が荷を積み直すあいだ、邪魔にならないところで座っていることくらいだった。
谷の口で次の便を待つうちに、朝の桶に薄い氷が張った。ハノを出たときは、まだ日暮れに虫が鳴いていた。待つのは苦にならない。苦になるのは、待っているあいだに向こうが進むことのほうだ。
肋のほうは、寝返りを右から打てば鳴らない。左から打つと、まだ内側で紙をめくるような音がする。指は二本、握るときだけ他人のものになる。首のは黄色くなった。日除けのつばを下げていれば、たいてい見えない。
「今日は歩ける? 昨日より? 昼のあいだだけでも?」
「三つ聞くな。一つでいい」
「じゃあ、歩ける?」
「平らなら」
平らなら、というのは、この道がずっと平らだったから言えたことだ。そのことに気づいたのは、荷車を降ろされてからだった。
男は道の途中で、荷の上のわたしをちらと見て聞いてきた。
「トゥーリの人かね」
「前にいた」
「うちも前は月に二度あそこまで運んでたんだが、近ごろは坂の下までにしてる」
「上は上がりにくいか」
「上がるのはいいんだ。置いてくるのが嫌でね。預けて帰ると、次に来たとき無いことがある」
男はそれきり黙って、鞭の代わりに縄の端でろばの尻を撫でた。無いことがある、で済ませた。盗まれた、とは言っていない。この町の人はまだ誰も、いなくなったもののほうに名前を付けられない。
降ろされたのは、川に橋が架かっているところの手前だった。ここから先は道が細くて荷車では上がれない、と男は言った。礼のかわりに、トトが荷を縛る紐を渡した。うちのおばさんはこれの結び方がうまいんだ、と言って、結んだのはこの子だった。
平らなところを歩くのは、思っていたよりうまくいった。膝から下は前と同じに動く。ただ、十歩ごとに息を入れ直さないと左が持たないので、歩幅の勘定がぜんぶ狂う。荷はトトが二つとも背負った。
橋を渡ると、匂いが変わる。
トゥーリは煙の匂いのする町だった。前もそうだったけど、前は鍛冶の煙で、それは朝と昼にだけ濃くなるものだった。いまは一日じゅう同じ濃さで来る。竈の火を落とせない家が、坂の上まで並んでいるからだ。
落とせないなら、燃やし続けるしかない。薪はその分だけ要る。秋の終わりに割って積んでおく量は、たぶんどこの家も足りていない。
橋のたもとに立って、そこまでを見上げた。
坂の下の通りは、前は錠前の店が三軒並んでいた。いまは戸口に金具と蝶番が積んであって、錠のほうは奥へ引っ込んでいる。売れないものは奥へ行く。手前に出ているもので、その町がいま何で食っているかは分かる。
町は坂だ。下が革と鉄で、上へ行くほど住む家になる。金庫室のある両替屋も下の通りにあって、あの日わたしは子供を二人そこから出した。出した瞬間に、この町の錠がぜんぶ開いた。
いまも開いている。見上げると、戸が開いたままの家が、坂の上まで点々と続いていた。冬に入る前の町が、あんなふうに戸を開けているものではない。
「見て。開いてるよ、ぜんぶ」
トトは坂の下の石垣に上がって、ひさしに手をかけて背伸びをした。この子はまだ、開いていることの気味悪さのほうだけを見ている。それでいい。
開けっ放しの家は、中が狭くなる。取られて困るものを奥へ積むからだ。積めば、通り道が細くなる。細くなった家で冬を越すと、人は転ぶ。転んで折ったら、この町にはもう継げる人がいない。
いない、というのはわたしにしか分からない言い方だ。町の人には「今年の冬は悪い」としか見えない。
わたしは石垣の日の当たるところに座って、トトを先に上げた。買うものを三つだけ言った。塩と、油と、あと蝋があれば少し。宿は探させないことにした。この体で帳場の前に立てば、こっちを覚えている人に一日で当たる。
待っているあいだ、日が向きを変えた。石垣は冷えるのが早い。出がらしの茶が二度目に薄くなるのと同じで、日というのは同じ時間ぶん当たっていても、季節の後ろのほうでは薄い。
トトが下りてきたのは、日が屋根の高さになるころだった。塩と油は買えて、蝋は無かった。
「宿は無理だと思う。ぜんぶ入口に人が座ってた。見てるんだよ、荷物を。番の人がいる宿なんて、おれ、見たことない」
「座ってるだけか」
「座って、編み物してた。でも来た人の顔はぜんぶ見てる。おれのことも見た」
「顔は下げてたか」
「下げてたよ。おばさんのまねしたもん。あと、市のところで人が集まってて、鐘の話してた。鐘つき番を夜も置くんだって。前は置かなかったんでしょ」
鐘は火事のときに鳴らすものだ。夜も番を置くというのは、火が出たら止められないことを、この町がもう体で覚えた証拠だ。理由のほうは誰も持っていない。
「番を置くくらいなら、掛ければいいのにな」
言ってから、しまったと思った。この子は掛けるという言葉の意味を、もう半分しか持っていない。掛ける金具のほうは知っていて、掛ける手のほうは頭から抜けている。
トトは首をかしげて、それから塩の袋を膝に乗せ直した。聞き返してはこない。ハノで覚えたやり方を、この子はここでも使っている。
寝るところは、川のこちら側の納屋に決めた。持ち主は上に住んでいて、下の納屋は秋が終われば空になる。戸に錠は無い。この町の戸には、もうどれにも意味が無い。
「勝手に入っていいの」
「戸が開いてるところは、入っていいことになってる町なんだよ、いまは」
「うそだ」
「うそだよ。でも、閉め出すほうの道具が先に消えたんだから、順番でいえばこっちが後になる」
トトは藁を寄せながら、その理屈のどこが変なのかを探していた。探しきる前に手のほうが終わって、寄せた藁の上に座った。それでこの話は終いになった。
荷を下ろしてから、もう一度だけ坂を見上げた。上がるなら明日だ。今日のうちに上がろうとすれば、途中で座り込んで、座り込んだところを誰かに見られる。
この坂は、下りるときは楽だった。あの日はトトを引いて、坂の上の声を背中で聞きながら下りた。上がるほうは、宿が上にあったから三日のあいだ何度もやったはずなのに、足のほうが覚えていない。
上のほうの家は、屋根の並びしか見えない。そのうちの一軒に、閉まっている戸がある。
閉まっているだけなら、押せば開く。開かないかどうかは、行って押してみないと分からない。行くには坂を上がるしかなくて、坂は明日になっても坂のままだ。
トトが石垣に上がって、また背伸びをした。
「あれ」
「なに」
「……あれ、開いてない」




