第13話「押しても開かない、としか言えない」
この町は、パンではなく煙の匂いで朝になる。
前は違った。前は坂の下だけが先に起きて、革を煮る匂いと、鍛冶の炭の匂いが順に来た。順に来るというのは、火を入れる時刻が家ごとに決まっていた、ということでもある。いまはどの家の煙も落とせないので、朝に出ているものと昨夜のものの区別がない。
納屋の板の隙間から入ってくるのも、その煙だった。目が覚める前に喉のほうが先に起きる。夜のうちに冷えた体で吸うと、煙のほうが温かいので、しばらくは悪くない気持ちがする。悪くない気持ちのままで肋を伸ばすと、そこで一度だけ痛い。
トトは戸口で膝を立てて、昨日買った塩の袋の口を開けたり閉じたりしていた。この子は手が空くと必ず何かの口を開ける。
「坂の上まで行ってきていい? 昼までに帰るから。何か買う?」
「二つ目までにしろ。行っていい」
「じゃあ何も買わない」
「塩はもう買った。油もある。あと、走るな。走ると顔を見られる」
走る子供は、誰の子かと見られる。歩いている子供は、荷物のほうだけ見られる。ハノでは逆だったけれど、坂の町の目のつけ方はそこが違う。
この子を送り出したあと、橋のたもとまで下りた。下りるのは平らな道と同じで、時間さえかければどうにでもなる。上りだけが別の仕事で、あれは息を入れる場所を先に決めておかないと途中で立ち往生する。坂の中ほどで足を止めている女は、この町ではよく覚えられる。
市の広場は避けた。あそこは、死んだ人の名前が読み上げられて、わたしが先生と呼ばれた場所だ。聞いていた人の多い場所は、こっちの顔を覚えている人の多い場所でもある。
だから川沿いの、革屋の裏の道を歩いた。
その道でも、人は二度こちらを見た。一度目は帽子を、二度目は歩き方を見る。左をかばって歩くと、遠くからでも同じ形に見えるらしい。日除けのつばで隠せるのは顔だけで、歩き方は隠しようがない。
革屋の裏には、水を汲む場所がある。汲みに来た女が二人、桶を足元に置いて喋っていた。
「うちは奥の間に入れちゃったから、もう寝るところがせまくてね」
「みんなそうだよ。そのうち慣れる」
「慣れないよ。前はさ、置いといたじゃないの、そのへんに」
置いといたじゃないの、そのへんに。
家の中が狭くなるのは、洗い物を溜めた流しと同じで、置き場所のほうから先に無くなっていく。奥へ積めば積むほど、通れる幅が減る。
この人たちは、置いておけた理由のほうを言えない。言えないから、置いていた頃の話を、置いていたという事実のところで止める。それで会話は成り立つ。誰も困らない。
置いていたのは、掛けられたからだ。掛けられるから、外へ出しておける。外へ出しておけるから、家の中は寝るためだけの広さで足りていた。順番でいうと、いちばん先にあった一つが抜けて、そのあとの三つが順にずれていっている。
その一つ目を、わたしはこの夏、ここで使った。
わたしは水を汲まずに戻った。桶を持って坂を下りるのは、いまのわたしには荷が重い。
昼を過ぎて、この子が坂を下りてきた。息は上がっていない。走るなと言ったのを、ちゃんと守っている。
「宿、二軒とも断られた」
「理由は」
「言わなかった。でも二軒目のおばさん、おれの後ろを見た。おばさんが来てないか見たんだと思う。名前は言ってないよ、おれ」
この子は自分が悪かったかどうかを先に確かめる癖がある。言ってない、と自分から先に言うのはそのためだ。
「上出来だ。宿は諦める。納屋は雨が来なければ十日はもつ」
断られた理由は、たぶん顔ではない。子供が一人で宿を取りに来れば、どこの町でも一度は断られる。ただし二軒目のおばさんは後ろを見た。後ろを見るというのは、連れがいることを知っている人の見方だ。
「十日で足りる?」
「足りるように使う」
足りるかどうかは、上の戸が開くかどうかで決まる。その話はまだしていない。
「それで、上の家はどうだった」
トトは膝を抱えて、しばらく黙った。この子が黙るのは、言葉のほうが足りないときだ。
「あのね。押しても開かない」
「壊れてるのか」
「壊れてない。きれいだった。金具も新しいの付いてる。でも押しても引いても動かないの。中に人いるんだよ。声した」
「叩いたか」
「叩いてない。声しただけ。……なんで開かないの、あれ」
なんで開かないの、と、この子は本当に聞いている。
答えは一つしかない。掛かっているからだ。けれどこの子の頭には、掛かるという言葉が入っていない。金具は見える。金具に差す棒も見える。差した棒がどうして戸を止められるのかが、この子の中では抜けている。
わたしが夏の終わりにこの町でそれを使って、その日のうちに、世界じゅうの誰の頭からも抜けた。抜けたものは、抜けたことすら残らない。この子は自分の中に穴があるとは考えず、戸のほうが変なんだと言っている。
「戸が重いんだろう」
「重いのとは違うよ。押したら重いのは分かるもん。あれは、押しても押した気がしないの」
押した気がしない。この子の言い方のほうが正確だった。掛かった戸は、押しても手応えを返さない。塩の袋は、口を締めてあってもいなくても見た目は変わらないが、持ち上げれば手のほうが先に気づく。あれと同じことが、戸の厚みぶんの向こうで起きている。
「明日はおれ、裏から回ってみる。裏に窓あったから、あそこなら」
「やめとけ」
「なんで」
「見られる。それに、あの家の人はたぶん困ってない。困ってない家の窓を見に行くと、こっちが困る」
困っていないのがいちばん厄介だった。町じゅうが戸を開けたまま冬に入ろうとしていて、あの家だけが閉まっている。開かない理由をこの町の誰も言えないから、誰も不思議に思わない。
不思議に思えるのは、無くなったものの名前を持っている人間だけだ。そしてその人間には、確かめるやり方が一つきりしかない。使えばいい。使えば、開くか、何も起きないかで、戻っているかどうかがはっきりする。
はっきりした瞬間に、それはまた無くなる。
夕方が来るのが早い。秋の終わりの日は、屋根の高さまで落ちてからが速い。町の連中が急ぎ足になるのは、暗くなると仕事が終わるからで、終わってからの時間は長い。長い夜をどう過ごすかを、この町はもう何年も、灯りを足す以外のやり方で覚えてきた。
油を買い足しに下の通りへ出た。錠前屋の並びは、昨日見たときより戸口が片づいていた。売れないものを奥へ入れて、手前を広くしたらしい。棚を空けるのは、次に何を置くか決まった人のやることだ。
三軒目の戸に、紙が貼ってあった。墨は新しくて、字は下手ではない。
**夜のあいだ、お預かりします。一晩、銅貨二枚。**
その下に、細く書き足してある。
**日の出まで、こちらで見ております。**
銅貨二枚は、宿の一晩の三分の一だ。人は泊まらず、荷物だけが泊まる勘定になる。持ち主のほうは家で寝て、朝になったら受け取りに来る。
紙の隅には、まだ薄く跡が残っていた。前に貼ってあったものを剥がして、その上から貼っている。剥がした跡の形は、四角くて、この紙より小さい。
錠前屋が、錠を売るのをやめて、夜のあいだ人が起きている商売を始めていた。




