第14話「固いだけだと、その人は言った」
今日やることは三つあって、そのうち二つは坂を上がらないとできない。だから残った一つを、朝のうちに片づけることにした。納屋の奥の藁を、寝る側と濡れる側に分けておく。それだけだ。
トトは薪を割りに行った。割らせてもらう代わりに屑をもらう約束を、この子が自分で取ってきた。ハノにいたころは、こういう交渉はこっちの仕事だった。坂の下の家は、どこも薪の山が去年より低いらしい。低いのに割る手が足りないのは、どの家も竈を燃やしっぱなしにしているからだ。なぜそうなったかは、誰も言わない。
藁は思ったより湿っていた。下の三分の一は捨てるしかない。捨てる量を見て、この納屋が去年の冬に使われていないことが分かった。
昼前に、坂のほうから足音が下りてきた。二人ぶんだ。
一人は荷を担いだ男で、もう一人はその半分くらいの背丈の娘だった。男は納屋の口で足を止めて、中を覗いて、それからこちらを見た。四十くらいだろうか。手の甲に古い火傷があって、指の太さからすると、坂の下で何かを打っていた腕だ。
娘のほうは父親の腰のあたりに掴まって、こちらを見なかった。人の顔を見ない子は、たいてい家でそう躾けられた子だ。
「あんた、ここに寝てるのか」
「悪いね。空いてると思ったんだ」
「空いてるよ。冬になったら物が入るけど、いまはまだ空だ」
追い出す気配がまったく無い。この町の人にしては、と考えて、そこで止めた。この町の人が誰にどう当たるかを、わたしは自分のせいで知っている。
男は娘に何か言って、納屋の奥から木の枠を二つ運び出させた。冬に窓へ嵌めるやつだ。板と板のあいだに布を挟んである。
「上の家か」
「そう。いちばん上の段の、右から二つ目」
右から二つ目。トトが押した戸だ。
藁を分ける手はそのまま動かした。止めれば、こっちの手を見られる。
「上は寒いだろう」
「うちは、そうでもない」
「風は上のほうが強いだろ」
「強いよ。強いけど、入ってこない。うちは戸のたてつけがいいんだ」
たてつけ、とこの人は言った。言えることで説明をつけて、それで済ませている。済ませられるあいだは、誰も困らない。
枠は二つとも、嵌める向きに印がついていた。毎年同じ窓に同じ枠を嵌めている家の印だ。冬の支度をこの順でやる家は、たぶん去年もおととしも、同じ順でやっている。
男は枠を担ぎ直して、娘に先を歩かせた。わたしは捨てるほうの藁を抱えて、表へ出た。そこへ男が戻ってきた。
「そのままだと夜に風が入る。閉めとくよ」
わたしは礼を言った。
男は戸に手をかけて、ゆっくり引いた。板が枠に落ちて、木のこすれる音がして、それで終わりだった。何も唱えていない。指も組んでいない。息も止めなかった。
男の手が離れてから、戸に掌を当ててみた。
押した。手が、途中で戻ってきた。
板は動かない。それだけなら、重い戸と同じだ。けれど重い戸は、押したぶんだけ向こうへたわむ。この戸はたわまない。たわむ手前で、こちらへ返ってくる。
鍋の蓋は、乗っているだけでも持ち上がらないことがある。中で湯気が減って、外の空気が押さえているときだ。あれは重さではなくて、向こう側の都合で動かない。いま手に返ってきたのは、それに近い。
背中のほうから男の声がした。
「悪い、そこ、固いんだ」
「固い?」
「古いからな。うちの親父のころからそうだよ。閉めると、しばらく動かない」
しばらく動かない、とこの人は言った。動かなくしたのは自分だとは、少しも思っていない。
「開けようか」
「いや、いい」
言ったあとで、なぜそう言ったのか自分でも分からなかった。分からないまま、男の足音が坂を上がっていくのを聞いた。
中には、わたしの荷と、トトの荷と、昨日買った油がある。外にいるのはわたし一人で、上着は荷の上に置いてきた。
昼過ぎにトトが戻ってきて、戸を引いて、それから押して、二度めに肩で押した。
「開かないよ、これ」
「見てた」
「なんで中で寝てたのに外にいるの。どうやって出たの。おばさん、閉じ込められてたんじゃないの?」
「一つにしろ。出たんじゃない。出たあとで閉められた」
この子は納屋のまわりを一周してきて、板の隙間から中を覗いて、戻ってきた。
「油、見えた」
「見えても届かないだろ」
「届かない。棒でも入らない」
入れるものなら、この子はとっくに入っている。そういうところは早い子だ。
「上の人に開けてもらおうよ」
「あの人、また閉めるよ」
「閉めたら、また開けてもらえばいいじゃん」
返事はしなかった。
寒くなる前に、この納屋には冬の物が入る。入れば人は寝られない。それまでの何日かを借りているだけなのに、その何日かのほうが、こっちにはよほど大事だ。
棒が入らないのは、板と板の隙間が指の幅も無いからだ。去年の冬に使われていない納屋にしては、板の合わせがきれいに揃っている。持ち主が毎年きちんと閉めてきた家の、閉め方の跡だ。
夕方まで、日の当たる石垣で待った。トトは薪の屑を並べて、乾いているのと湿っているのを分けた。分けたところで、火を熾すのは中にある道具が要る。
この子は熾しの手を三回に一回は成功させる。今日は四回やって、四回とも煙も出なかった。うまくいかない理由は道具のほうにあると、この子のほうは決めてかかっていた。
思わせておいた。ここで名前を出してやれば、たぶん一回で点く。点いたぶんだけ、この子の頭からその名前が消える。
暗くなると、坂の下は風の通り道だ。川のほうから来る風で、革屋の裏の匂いが先で、冷たいほうは遅れて来る。
「上の家、行ってこようか。開けてって言えば来てくれるよ、あの人」
「今夜はやめとけ。あの坂を暗くなってから下りるのは、あの人にも危ない」
本当の理由は別だった。あの人にもう一度あの戸を触らせたくない。触らせれば、また同じことが起きる。
起きるかどうかを確かめる方法を、わたしは一つだけ持っている。名前を出して、手を出せばいい。開いたら、それが答えだ。
答えを一度もらうたびに、この町からは一つ減る。減ったことに気づく人はいないので、減らしたほうも痛まない。痛みの出ない減り方をするものが、いちばん長く減り続ける。
「寒くない?」
「寒い。寒いから喋るな。息が減る」
トトは薪の屑を膝に抱えて、そのうち寝た。わたしは背中を石垣につけて、坐ったまま朝を待った。石は昼の熱を思ったより長く抱えていた。それでも、夜のほうがずっと長い。
肋のところは、冷えると縮む。縮むと、息の入る幅が昼の半分になる。半分でも足りるように吸うやり方は、この秋のうちに覚えた。覚えたくて覚えたわけではない。
夜中に、一度だけ目が覚めた。
坂の上で、木の音がした。戸を閉める音だ。
この町のどの家の戸も、閉めれば同じ音がする。閉まったあと動かなくなるのは、一軒だけだ。




