第15話「今年は転ぶ人が多いね、と言われた」
「起きな。中に入れてもらいな」
そう言われて目が覚めた。石垣にもたれたまま、いつのまにか眠っていたらしい。声の主は、貼り紙を出していた店の主人だった。背は低くて、腕だけが妙に太い。錠前屋の腕だ。
外の空気は、昨日までとは別のものになっていた。吸うと歯の裏が痛い。夜のうちに、坂の上から順に冷えてきたのだと思う。石垣は昼のうちに温まるが、朝までは持たない。持たないことを、わたしの背中が先に知っていた。
肋のあたりは、冷えると骨と肉の境が固くなる。固くなると、息の通る幅が狭くなり、狭いまま眠ると朝に咳が出る。咳をすると、そこがまた痛む。順番が決まっているので、覚悟だけはできる。
「うちは夜じゅう起きてる。座ってるぶんには構わない」
「助かる。荷は無いんだけどね」
「荷が無い客のほうが楽だよ」
助かる、ともう一度言った。言ってから、この二日で人に何度そう言ったかを思い出しかけて、途中でやめた。
店の中は、外から見た倍ほど物で埋まっていた。奥の棚に、木箱と布包みが上まで積んである。どれにも同じ形の木札がついていて、番号ではなく、絵のようなものが彫ってあった。
手前の台には、まだ札のついていない箱が三つ並んでいた。持ち込まれた順に並べて、朝に順番どおり返すのだろう。順を取り違えなければ、この商売は成り立つ。錠が要らないのではなく、錠の代わりに人と順番を置いている。
「字は書かないのかい」
「読めない人のほうが多いからね。この家の印を彫っとくんだ。豆の家、鋤の家、井戸の家」
主人は火の前に椅子を二つ置いて、片方をわたしに寄越した。座るとき、背もたれのほうへ体を落とすやり方しかできないのが、自分でも情けない。人から椅子を出されたのは、この体になって初めてだ。竈の火は入ったままだ。どこの家も、いまは落としていない。
落とせないから燃やし続ける。燃やし続けるから薪が減る。減った薪を割る人手が追いつかないので、坂の下の家は割り賃を出して人を雇い、雇われた者は夜まで割っている。夜まで割ると、手元が暗い。
暗いところで刃物を使えば、指を落とす人が出る。指を落とせば、それを継げる人を探すことになる。
探して、出てこない。無いのに、探し方だけが町に残った。誰それの家の婆さんが上手い、隣の村に一人いたはずだ、去年はあれで治った ―― そういう言い方だけが町に残っていて、当の手のほうが無い。無いことに気づくには、名前が要る。
「今年は転ぶ人が多いね」
主人はそう言って、火に薪を足した。多いね、の言い方が、天気の話をするのと同じ調子だった。
「そんなに」
「上の段のばあさんが、おとといやった。腰から下がもう動かない。あと、川沿いの子が肘をね」
「子供のほうは、くっつくだろう」
「くっつくよ。ただ、曲がりが戻るかどうかは、そのときになってみないとね」
「前は分かったのかい」
「前は、分かる人がいたんだよ。誰だったかね」
「医者は」
「診てはくれるよ。診て、布を巻いて、あとは寝かせとけって」
それが全部だ。この町の医者に残っているのは、布を巻くところまでだ。その先の手つきは、もうどこにも残っていない。本人のほうは、腕が落ちたからだと考えている。歳のせいでも、道具のせいでもいい。理由は毎年違うものが用意される。
持っていたものを、わたしが持っていった。ハノの産婆がもう指に触らなくなったのと、同じ日のことだ。
わたしは火のほうへ手を出した。指は動く。中の二本は動かない。
この二本は、腕のいい人に診てもらえば、たぶん一度で済んだ。診てもらえる人がこの世に一人もいないのは、夏の終わりにわたしが決めたことの結果で、決めたときは、そんな先のことまで数えていない。
夜は長い。日が落ちてから明るくなるまでのあいだに、この町の人は薪を減らし、荷を預け、暗いところで刃物を使う。長い夜を灯りで短くする手立ては、三年前まではあった。
三年前にわたしがそれを使ったのは、ここではない土地でだ。使った場所と、困る場所は、いつも別になる。困っている人の顔を見ないで済むようにできているのは、おそらく、そのほうが続けやすいからだろう。
火と、戸と、指のことは、この夏に自分でやったことの結果だと分かる。夜の灯りだけは、他人の顔を見ないと出てこない。
火の音のほかに、聞こえるものが無い時間が続いた。こういう夜に人が起きているのは、この町では新しいことだ。前は、暗くなれば戸を閉めて、朝まで誰も外に出なかった。
薪が一本、崩れて灰の中へ落ちた。主人は火箸で戻して、位置を直した。直した手つきが、さっき木箱を棚へ上げたときと同じ速さだった。
夜半に、戸を叩く音がした。
主人が出ていって、しばらく話して、木箱を一つ受け取って戻ってきた。手つきに迷いが無い。受け取って、札を彫って、棚へ上げるまでが一つの動作になっている。新しい商売にしては、手が慣れすぎていた。
「豆の家。今夜だけだって」
「泊まりの客は多いのかい」
「増えたよ。前は、こんな商売は無かった」
「儲かるかい」
「儲かる。儲かるが、うちは錠を売ってたんだ。売れないから、こっちをやってる」
「そりゃそうだ」
「あんた、前にこの町にいたのかい」
手元の火が、そこで一度小さくなった。薪の下が空いたせいだ。目だけ動かして、顔は火のほうへ向けたままにした。
「通っただけだよ」
主人はそこで話を切った。それがこの商売のやり方なのだろう。預かる者は、中身を訊かない。
朝方、わたしは一度だけ立って、外の風を見た。
外は、まだ暗いほうに近かった。空の色より先に、風のほうが変わる。土と煙と、その下に川の匂いがある。
坂の上の段のほうで、戸が二つ開いたままになっていた。人が出入りしているのではない。ただ閉めていないだけだ。閉めない家のほうが、いまは多い。
閉めても止まらないなら、開けておいたほうが出入りが楽だからだ。誰も、閉められない、とは口にしない。閉めても意味が無いね、と言うだけだ。
その言い方でみんなが納得しているうちは、こっちへは誰も来ない。来ないほうがいいのか、来たほうがいいのかは、二年考えてまだ決まっていない。
明るくなったころ、トトが迎えに来た。この子は揺すっても起きずに石垣で寝通して、起きると薪割りに行って、そのあとでわたしを探す。順が逆だと思うけれど、この子の頭ではそう決まっているらしい。
「指、どうしたの」
「見せてない」
「見せてなくても分かるよ。火に当ててるとき、こっちの手だけ丸めてるもん」
この子は、わたしが隠しているものを見つけるのが上手い。見つけたところで名前は付けられないので、いつも途中で止まる。
「あとで温める。それより、薪はいくらになった」
「三束。あと、干した芋もらった」
「上出来」
「おれ、明日も行っていい? 薪の家、人が足りないって。冬のあいだずっとって言われた」
「行っていい。暗くなる前に戻れ。刃物は、暗いところで使うな」
店を出るとき、奥の棚のほうで何かが動いた。
積んである木箱の隙間に、小さい顔があった。小さい。昨日、上の家の男の腰につかまっていた娘だ。
目が合っても、逃げなかった。見られるのが平気な子とは違う。見ると決めてから見にきた目だ。
こっちは黙っていた。娘のほうも黙っていた。




