第16話「戻っているかどうかは、撃つまで分からない」
鐘が鳴ったのは、夜がいちばん長いところだった。冬に入ってからの夜は、真ん中が厚い。厚いところで鳴らされると、音が空へぶつかって、戻りが遅れる。
二つ、間を置いて、また二つ。それから続けざまに鳴りはじめて、鳴らし方を知らない者が代わったのが音で分かった。番を置くようになったのは今年からで、置いた人たちも、鳴らす練習まではしていない。
納屋の戸は、錠前屋で夜を明かした日の昼には、押せばまた開くようになっていた。その戸を押したら、外がもう明るかった。明るいのは空ではなくて、坂の下のほうだ。
トトが先に走り出して、すぐ引き返してきた。わたしの歩く速さを、この子はもう心得ている。
「錠前屋のとこ」
「人は」
「分かんない。水汲んでる人がいっぱいいる。桶、上まで回してる」
「主人は」
「見てない。おれ、前の道までしか行ってない」
橋のあたりまで下りると、匂いで分かった。木と、布と、そのあとに油の匂いが来る。預かった荷が燃えている匂いだった。人の家の物が燃える匂いは、薪の匂いとは別のものだ。混じっているぶんだけ、鼻の奥に残る。
火は店の裏手から出ていた。竈のある側だ。落とせない火が、夜のあいだに藁へ移ったんだろう。
鐘は、わたしが着いたころにやんだ。鳴らす者も水を運ぶほうへ回ったらしい。鳴らし続けるより、水を運ぶほうが早い。
人は集まっていた。集まって、桶を回して、屋根へ水をかけている。かけながら、誰も火のほうへは近づかない。近づけないのではない。近づいても何もできないだけだ。
水は火を弱くする。弱くするだけで、消しはしない。この町の連中はそれを、この夏までは知らずにきた。知らずに済んでいたのは、火を落とせる手が近所にあったからで、その手が誰のものだったかを、いまはもう誰も言えない。
屋根へ上がった男が、瓦を剥がして水を落としはじめた。火の回る先を切るやり方だ。手順を知っている人はいる。道具が無いのではなく、効く手が無い。
伏せの手があれば、竈ひとつぶんの火は、掌を伏せるだけで落ちる。鍛冶の炉でも同じだ。あれを最後に使ったのは、この町の広場で、わたしだった。
「中に、まだいる」
誰かがそう言い、続けて何人かが同じことを言った。言うだけで、誰も入らない。
「奥で寝てるはずだ。夜はいつも店にいるんだから」
「裏から回れないのか」
「裏がいちばん燃えてる」
三人が同じことを三度言って、そのたびに誰も足を出さなかった。動かないのは薄情だからではない。入って出てこられる算段が、誰の頭にも立たないからだ。
入り口はもう炎で、残っているのは横の細い戸だ。そこまで歩いた。膝から下が思うように運ばず、途中で二度立ち止まった。
戸は動かない。閂が焼けて、木が膨らんで、枠に噛んでいる。体重をかけても、遊びが出ない。
トトが横から手をかけて、体重をぜんぶ乗せた。木が鳴っただけだ。
「開かない。これ、燃えてくっついてる」
「どいてろ」
「棒持ってくる? こじれば」
「間に合わない」
「じゃあ、どうすんの」
「わたしがやる。見てなくていい」
「見てるよ」
「なら、下がって見てろ」
「うん」
「危ないよ」
「離れてろ」
「でも」
「煙はこっちへ来る。風の下に立つな」
わたしはこの子を後ろへ回して、戸に手を当てた。板は熱くなっていたが、まだ握れる熱さだった。
この手には、覚えのある名前がある。この町で、夏の終わりに一度使った名前だ。使ったから、この世からは無くなった。無くなったはずのものが、坂の上の一軒では働いている。
働いているのを、この掌で確かめてある。あの戸は、掌を押し返してきた。
だからといって、いま撃って開く保証はどこにもない。峠の夜に、わたしは一度、無いものを撃っている。あのときは何も起きなくて、その代わりに肋を折られた。
撃って、何も起きなければ、この戸は開かない。中の人は出てこない。
開けば、在った証拠になる。証拠になった瞬間に、無くなる。確かめる、というのはこの場合ぜんぶ嘘で、確かめる手つきと奪う手つきが同じものだというだけの話だ。
はっきり分かったうえで、手を置いた。分かって使うほうが、分からずに使うより悪い。悪いほうを選ぶのに、迷う時間は無かった。
名前を言った。声には出していない。この術の名前は、いまこの世で、わたしの頭の中にしか無い。トトの頭からはとうに抜けているし、教本の紙にはインクの染みしか無い。この子と歩くようになってから、名前を運ぶ役をこの子から借りずに済む術は、これが初めてだった。
枠の中で、木の鳴る音がした。歪んで噛んでいたものが、噛んでいない形に戻った音だった。
戸は、指一本の力で開いた。中から煙が先に出てきて、そのあとに主人が這って出てきた。腕を焼いていて、髪の端が縮れていた。息はしていた。
主人はわたしの足元で一度だけ口を動かした。声はほとんど出ない。
「棚の、下から二段目」
「あとにしな」
「あれは、預かりもんだ」
「燃えたよ」
「そうか」
「棚、どれが下から二段目?」
「言うな」
「なんで」
「思い出させると、探しに戻る」
人が寄ってたかって主人を運んでいって、誰かが「戸が外れたんだ」と言った。焼けて外れたのだと、そこにいた全員が思った。
思わない人間が一人だけ、戸のところに立っていた。掌には熱も痺れも無い。押し返してくる感じも無い。開けたのは自分だという証しが、体のどこにも出ないままだ。
空が白むころには、火の色が変わった。赤いところが減って、下のほうだけが濃くなる。燃え方の変わり目は、見ていれば誰にでも分かる。
夜が明けてから、火は勝手に小さくなった。燃えるものが尽きたからだ。預かった荷は、上の三段ぶんが灰になった。木札も一緒に焼けたので、どの家の何が残ったかは、明日から順に揉め事になる。
人が減ったあとの通りは、水びたしのまま冷えていった。桶を返しに行く者と、返してもらいに来る者が同じ道ですれ違って、どちらも黙っていた。
わたしは坂の下の石垣まで戻って、そこに座った。腰を落とすところまでは何とかなる。背中を石へ預けるのに、そこから少し時間がかかる。
トトが芋を分けて、半分を押しつけてきた。焼けた家の前で腹が減るのは、この子だけではない。
「なんで開いたか分かる?」
「木が乾いたんだろ」
「乾いたら、もっと固くなるよ」
この子は薪を割っている。割っている子には、乾いた木の膨らみ方が分かる。そこへは答えを返さずにおいた。
昼過ぎに、預かり物の話を聞きに人が集まって、そのうちの誰かが言った。
「上の家の人が、下りてきてないね」
「あの人んとこは、火の心配がないからね」
「なんで」
「知らないよ。昔から、あの家だけは戸締りがちゃんとしてる」
その夜、石垣で待っていた。待つ理由はこちらにしかない。町の誰も、待つようなものが減ったとは思っていない。
坂の上で、戸の閉まる音がする。この町でその音がするのは一軒きりで、二晩続けて聞いている。
その夜は、止まる音が来なかった。
次の夜も来なかった。三日目は風が強くて、耳のほうが使えなかった。四日目に、また待った。閉める音はする。閉めたその先で止まる音のほうが、無い。
あの人は今夜も、たぶん同じ手つきで戸を閉めている。閉めて、戸が止まらないのを見て、古いからだと思う。
自分の掌を、火の残っているほうへ向けた。動く指と、動かない指がある。動かないほうは、あいかわらず他人のものだ。掌のほうは、やはり空のままだ。




