第8話「手が要る。名前じゃなくて」
トトは、寝る前の節を唱えなかった。
起きているあいだは前と変わらない。粥に文句を言うし、村の犬に噛まれかけた。ただ、横になってからは口が動かない。言わないでと頼んだのはわたしなので、文句を言う先が無い。
朝のうちに井戸へ行った。水運びの列はもう出たあとで、縁に桶が一つ伏せてある。誰も使わない井戸なのに、それでも毎朝、桶だけは置かれるらしい。
釣瓶を落として、上げた。泥が指一本ぶん。昨日と変わらない。
その泥に鼻を近づけた。臭わない。桶に汲んで置いた水は、夏なら二日で臭くなる。臭わないなら、下の泥は入れ替わっている。
入れ替わっているのに、上がってこない。
昼前に村長が来た。痩せた男で、両手を前で組んだまま喋る。組んだ手をほどかない人からは、たいてい何も出てこない。
「あんた、井戸を覗いてるそうだね。掘るのはよしとくれ。あそこは石を積んで持たせてるんだ。崩したら、水どころか穴も無くなる」
「掘らない。中を見るだけ」
「見てどうする。水の筋が下へ落ちたんだよ。落ちたものは戻らない。汲みの手の人が生きてたって、同じさ」
落ちてはいない。石の下を通っている。昨日の朝、耳をつけて聞いてきた。言っても信じないし、信じられたらもっと面倒になる。
「人を貸してください。二日」
「水運びに出払ってるよ」
「半分でいい」
「あんた旅の人だろう。うちの者を二日遊ばせて、水が出なかったら、その二日ぶんは誰が運ぶんだい」
「わたしと、うちの子で運ぶ」
村長はわたしの左のほうを見た。昨日の坂で、倒れた子を抱き起こせなかったのを見ていた人がいるらしい。
「片腕でかい」
「片腕で」
桶の底の泥を指ですくって、村長の前へ出した。
「嗅いでください。腐ってない。溜まった水の泥は腐る。腐ってないなら、下で動いてる」
村長は組んだ手をほどいて、指の先を泥につけた。鼻の下まで持ち上げて、そのまましばらく動かなかった。
「……臭くないねえ」
「みんな落ちたって言うんだよ。先月からずっとだ」
「落ちてない。よそを通ってるだけ」
縄だけは村にいくらでもあった。水を運ぶ村は、縄が新しい。
わたしは下りられない。縄を握るには両手がいるし、左の腕は耳の高さまでも上がらない。下りられるのは軽い者だ。軽くて、暗いところで手の動く者。
「トト。下りてくれる?」
この子は縁に手をかけて、中を覗いた。それから顔を上げた。上げたきり、井戸のほうへ戻さない。いつもは人の顔を見てから物を見る子だ。今日は物のほうを見なかった。
「灯りは」
「無い。長くもつやつは、この世に無い」
「見えないじゃん」
「見なくていい。手で触るの。壁を、ぐるっと」
「深いの? 底に水ある? 落ちたら死ぬ?」
「深い。無い。死なない」
男が二人で桶の縄を下ろした。わたしは縁から身を乗り出せないので、声だけ出した。落ちていく声は、途中から丸くなって戻ってくる。
「壁に触ってて。ずっと。濡れてるところがあったら言って」
「ぜんぶ冷たいってば」
しばらく何も聞こえなかった。縄が止まっているのが、上から見ていても分かる。それから、下のほうで声がした。
「あった。ここだけ濡れてる。上のほうがもっと濡れてる。指、滑らせると」
戸棚の奥へ落とした匙を、見ないで探すときの手つきだ。目で見ているときより、そのほうが正確なこともある。
「上がってくるとき、その濡れてるところに手をつけたまま上がって。上に着いても離さないで」
トトが上がってきた。縁から顔が出て、片方の手は壁についたままだった。掌が、爪のあいだまで黒い。その手の指す先を目で追った。
谷の上のほうだ。沢が石の下へ潜っていったのと、同じ向きだった。
水は落ちていない。井戸の脇を、井戸の底より高いところを、横に通っている。掘っても届かない。届く前に井戸のほうが崩れる。
井戸は諦めることにした。
次の朝、村長が男を何人かよこした。水運びの列から抜いた者たちで、抜けたぶんは女と子供が背負う。誰も口をきかなかった。
沢が潜るところまで、登って半日かかった。崩れた岩はどれも人の背より大きくて、動かせない。動かさなくていい。
水は岩と岩のあいだから下へ入っていく。入る口を塞げば、水は手前に溜まる。鍋は、火が強すぎると縁の一か所から先に煮こぼれる。どこから溢れるかを決めているのは、火ではなくて鍋の形だ。
この谷の形が決めているのは、上の畑へ行く水路だった。白いまま干上がっていて、傾きだけが残っている溝だ。作った人が測って掘ったものなので、水さえ入れば、測ったとおりに下りる。
石を運ぶのは男たちで、置く場所を言うのがわたしだった。持てないぶん、よく喋る役になる。腹は立つが、立てているひまも無い。
石だけでは塞がらない。石と石のあいだを埋めるのは、いつでも土のほうだ。岸から粘土を掘って、水の中へ手を突っ込んで詰める。
男たちの腕は、途中までしか入らなかった。肘のところで岩に当たる。細い腕を、と誰かが言って、そのあと全員が同じほうを向いた。
「おれ?」
トトは自分の腕と、岩の隙間を見くらべた。
「入る?」
「入る。たぶん」
「奥から詰めて、こっちへ戻ってくるように埋めて」
この子は上着を脱いで、肩まで突っ込んだ。頬が岩に押しつけられて、口のほうがひしゃげた。パン種を型の隅まで押し込むとき、誰も手元を見てはいない。埋まったかどうかを知っているのは指の腹だけだ。
「まだ入る?」
「まだある。……ここ、風が来る」
「風が来るところが穴。そこから先に」
その日は暗くなるまでやって、水は溜まらなかった。抜ける音が、どこかでずっとしていた。
名前なら、まだ耳にある。息を吸えば済む話だ。
肺に空気を入れて、そのぶんで、次の石をどこへ置くかを言った。
三日目の昼、水が水路の口を越えた。
越えたのは指の幅ぶんもない。それでも、越えたぶんは下りていった。乾いた溝は最初のところで吸い込んで、それから濡れた面の上を走りはじめる。男たちが水と一緒に走って、途中で笑いだして、それから誰も走らなくなった。追い越されたからだ。
村へは、日が落ちる前に着いた。水のほうが、だ。
女たちが溝の縁に並んで、手を入れた。上の畑では男が水路を見下ろしたきりで、こっちへ来ない。畑に回すには足りない。今年の分は、もう遅い。
村長がトトの手を取って、掌を上に返した。指の腹が、爪のきわまで割れている。
「この腕が入ったんだよ。うちのは肘で止まった」
村長はそれきり、わたしのほうを見なかった。見なくていい。上げたのはわたしではない。
夜になって、村の音が変わった。桶が石に当たる音がして、そのあとに水を撒く音がした。どこかの家で子供が怒鳴られている。ここへ来た日、この村では水の音が一つもしなかった。
井戸の縁に腰かけて、そのまま立てなくなった。膝には力が入るのに、息のほうが続かない。三日ぶんが、いっぺんに来ている。
トトが横にしゃがんで、わたしの右腕を自分の首へ回した。この子の肩は、わたしの肘くらいの高さにある。歩幅も合わない。合わないまま、二人で村のほうへ動いた。
途中で何度か止まった。止まるたびに、この子が待った。
おばさん、と呼ばれた。
名前を呼ばれた気がした。




