第7話「水はある。わたしが上げないだけ」
水の音を追って下りてきたのに、下るほど水は細くなった。
沢は谷の途中で石の下へ潜って、それきり出てこない。崩れた岩がいつのものだか分からないくらい丸くなっていて、隙間からは風だけが上がってくる。しゃがんで耳を寄せると、下のほうで水が動く音がした。動いてはいる。こっちへ来ないだけだ。
トトが荷を二つ担いでいた。明るくなってから斜面を上がって拾ってきた荷だ。焚き跡は踏み消されていて、ほかには何も無い。わたしの荷は軽いのに、それでも担がせている。左の下に漬物石を入れられたみたいで、腕を肩より高く上げると、その石が動く。
「おばさん、峠、越えなかったね」
「越えてない」
「じゃあここどこ? この谷、下まで行ける? 行ったら村ある?」
三つ来た。昨日の夜から、この子は名前のこと以外なら喋る。
「たいていある。谷の底には村があるの。水があるから。水の無いところに人は住まない」
昼を回ったころ、谷が広がって、畑と、藁を載せた屋根が見えた。ハノというらしい。
道は村の手前で二股になっていた。片方は上の畑へ、片方は谷を回るほうへ行く。谷を回るほうの道だけが、踏まれて白くなっている。畑へ上がる道には、草が伸びていた。
村の真ん中に井戸があって、その前に人が並んでいた。並んでいるのに誰も釣瓶に手を出さない。順番を待つ列ではなくて、待つことに慣れてしまった人の立ち方だった。
釣瓶は下ろしてあった。上がってくる桶の底に、泥が指の厚みぶん溜まっている。女が一人、それを溝へ空けて、また落とした。空けて、落とす。粉の袋を逆さにして底を叩いているときの手つきに似ていた。
「今日はどう」
「昨日と同じさ」
女はわたしの顔を見てから、帽子のつばの下を覗いた。旅の者が珍しいのではなくて、桶を提げられる腕かどうかを見ている目だった。
「あんた、腕は使えるかい」
「片方は」
「片方でも並びな。谷を回ったところに湧きがある。行って帰って、日が傾く」
「汲みの手の人は」トトが横から言った。「いないの? この村にはいなかったの?」
「先月死んだよ」
女は桶の泥をまた溝へ空けた。
「あの人がいたころは、こんなもんじゃなかった。でもね、いま誰を呼んだって同じさ。水の筋が下へ落ちちまったんだ。無いものは上がらないだろ」
水はもう無い、というのがこの村の話だ。逃げていったのだと信じている。
ついさっき、石の下で、その水の音を聞いてきたところだ。
「この人なら——」
トトの口に手を当てた。掌に前歯が当たって、そのまま塞いだ。この子の口を塞いだのは、二年で初めてだ。ずっと逆のことをしてきた。
「うちの子、寝ぼけてるんです」
「変わった子だねえ」
「よく言われます」
列が動かないうちに、井戸の縁から中を覗いた。石を落とすと、音が返るまでが長い。深い井戸は、底が見えないぶん、まだ望みがあるように見える。
底を見るには灯りがいる。松明は途中で息をしなくなるし、油の皿は風で消える。長くもつ灯りなら縄に括って下ろせた。それが世の中から消えた年に自分が何をしていたかは、思い出さなくても分かる。
「昔は下りたんだよ」と女が言った。「男が二人がかりで下りて、底を掘り直してさ。近ごろは誰も下りたがらない。暗いのが怖いなんて、情けない話だろ」
情けなくはない。下りられなくなったのだ。
村の煙突は、どれも薄い煙を吐きつづけていた。一昨日から、この国のどの竈も落ちない。この村は薪のせいにしている。水を運んでいるあいだに、薪のほうも余計に減っていく。
畑は村の上にあって、水路は乾いて白くなっていた。勾配だけは残っている。
水は毎日いる。火は、無ければ生で食えばいい。灯りは、無ければ目が慣れる。錠なんて、もともと掛ける物を持っていない。水だけは、毎日いる。明日も、その次の日も、どこかの村の井戸から上げてもらって飲む。
左の下が痛むたびに、この順番で物を考える癖がついた。昨日の夜からだ。
トトは桶を二つ借りて、列の後ろについた。わたしは並ばなかった。並んだところで、片手では桶が振れる。
列が出ていってから、井戸の前に座った。日が回って、石の影が縁から底のほうへ落ちていく。
村は静かだった。人がいないのではなくて、水を使う音がしない。洗い物の音も、打ち水の音も、子供が桶をひっくり返して怒鳴られる声もしない。音のしない村が、こんなに落ち着かないものだとは知らなかった。
西日になってから、列が帰ってきた。
先に男が来て、そのあとに女と子供が続く。天秤棒の子もいれば、桶を抱えている子もいる。最後の登りだけは、どこの村でも坂になっている。水は上へ運ぶものだからだ。
その坂で、前のほうの子が止まった。止まって、そのまま前に倒れた。
桶が二つとも転がって、坂を水が下りていった。石畳ではないので、水は跳ねずに吸い込まれた。半日ぶんが土に入るのに、時間はかからない。
駆け寄って、抱き起こそうとして、できなかった。膝はついた。腕が肩より上に行かない。背中に手を回したところで左の下の石が動いて、息のほうが先に止まった。
男が来て、子供をひっくり返して膝に乗せた。顔が白い。汗が出ていない。汗が出なくなってからが早い。
「またか」
男はそれだけ言った。またか、で済む言い方だった。
「水」
誰かが言って、誰も動かなかった。持っていた水は、いま、坂が飲んだ。
トトが後ろから走ってきて、自分の桶を下ろした。両方とも口まで入っている。一度もひっくり返さずに登ってきたらしい。
片手で柄杓を取って、子供の口の端に当てた。舌が動いた。動いたので、もう一杯やった。三杯目で瞼が動いて、四杯目で咳が出た。咳が出るのはいい。
坂を上がってきた水が、坂を上がってきた子の中へ戻っていく。往復して、飲ませて、明日また同じところへ行く。絞りきったはずの布から、まだ滴が落ちるのに似ている。落ちるだけで、桶は溜まらない。
トトが柄杓を受け取って、桶の水を足した。顔のほうは坂の下へ向いている。
「あの子、明日も行くの」
「行くよ」
「おれたちは」
「知らない。まだ決めてない」
日が落ちてから、井戸の前にもう一度立った。村の家に灯りが点いて、そのどれも小さい。井戸の中は真っ暗で、風が上がってくる。石の下で聞いたのと同じ音が、そこにもあった。
名前なら、この耳が知っている。あの町の広場で、この子が子供に囲まれて唱えていた。熾しの手の、すぐ次だ。
息を吸った。
吸っただけで終わりにした。吐くと左が痛むので、そのぶん長くかかった。
後ろで足音がした。トトだった。桶を返してきて、横に立った。
「おばさん」
井戸から目を上げないでいた。
「おれ、」
「言わないで」
トトが黙った。
「今日も、明日も。言わないで」
この子はわたしを見上げて、それから井戸のほうを見た。名前を出すのがこの子の役目で、出さなくていいと言われたら、役目のほうが先に無くなる。分かっていて言った。
女が桶を提げて通りかかった。昼に、並びなと言った人だ。
「明日も来るかい。手が要るんだ」
わたしはうなずいた。
「あんたら、水は出せないんだろ。いいんだよ。手だけでいい」




