第6話「名前を、言って。いますぐ」
足音は、火から十歩ばかりのところで止まった。
わたしは立ち上がった。膝の下で枝が鳴って、そのぶんだけ、こっちの居場所を教えたことになる。熾はもう赤いだけになっていて、赤いだけの火は遠くからよく見えるくせに、手元を何も照らさない。
夜の山は、風が上から下へ抜ける。だからこっちの匂いは下へ行く。下から上がってきた人間には、火の匂いのほうが先に届いていたはずだ。焦げた麻と、炙ったパンの匂い。
「先生」
声は火の輪の外から来た。上着の肘の継ぎが、赤いところで一度だけ見えた。
「起こしましたか。それとも、起きて待っていましたか」
トトの寝息が止まった。起きたのは、それで分かった。
「武器は持っていません。両手、見えますか。……見えないでしょうね。暗い」
ザンドは自分の手を火のほうへ差し出した。指の長い手だった。
「この峠は、昔はもっと明るかったんですよ。折り返しごとに、夜通しの灯りを置くものでした。うちが売っていたんです」
「灯り屋が夜道に強いとは思わなかった」
「強くなりますよ。売り物が無くなれば、誰でも」
声の高さも、間の取り方も、市の立った昼間とまるで同じだった。夜だから声を落とすという考えが、この男には無いらしい。わたしのほうは、さっきから自分の呼吸の音が大きすぎて困っている。
荷のほうへ半歩寄った。刃物は入っていない。持っていると使うことになるので、ずっと前にやめた。荷の中にあるのは水袋と毛布と、干し杏の残りだけだ。
「先生。次はどこを助けるんですか」
「助けない。しばらく寝てる」
「寝ませんよ。板を叩く音が聞こえたら、先生は開けます。あの町で、あなたの話をたくさん聞きました。子供が二人でしたね。名前まで教えてもらいました」
「よく喋る町でしょ」
「いい町です。いまも困っていますけどね」
ザンドは火のほうへもう一歩寄った。それで顔が見えた。目のふちが濡れていて、口のほうはずっと笑っている。器用な男だ。町の広場でもそうだった。
「トト」
その名前を、火の向こうから呼んだ。
「そう呼ばれているんでしょう。広場で三つ答えてくれましたね。どこから来たのか、いつからいるのか、次はどこへ行くのか。ぜんぶ、ほんとうのことでした。助かりました」
毛布の動く音が止まった。
窪みの後ろは岩で、上は道だ。道に出れば早いが、道はこの男の後ろにある。残っているのは沢へ落ちていく側の斜面で、そっちは何も見えない。灯りがあれば下りられる。この峠から灯りが無くなったのがいつで、誰のせいだったのか。それだけは間違えようがない。
火から枝を一本抜いていくこともできる。足元は見えるようになるが、見えるということは見られるということだ。消していけば追われない。ただ、土をかければ煙が立つ。昨日の夜と同じ理由で、この火は消せない。
どれを選んでも遅い。遅いときに手元にあるものは、いつも一つきりだ。
「トト。名前」
返ってきたのは息だけだった。
毛布の上に、膝で立っていた。口は開いている。開けた形のまま顎だけが小刻みに動いて、歯が当たる音がした。湯が沸きだす前に、鍋の底で鳴る音に似ている。
口が一度、名前を始める形になった。音は出ない。もう一度その形になって、二度目も出ない。この子の口から名前が出るまでの間を、わたしは二年ぶん知っている。こんな間は一度も無い。
手を伸ばしかけて、やめた。触ったら、たぶんもっと固くなる。
「トト。名前を、言って。いますぐ」
言ってから、震えているのが自分の声のほうだと気がついた。急かして出るものなら、とっくに出ている。
わたしは自分の頭の中を探した。名前ならある。ありすぎるくらいある。ただ、この中には、まだこの世にあるものと、わたしがもう畳んでしまったものが、同じ顔で並んでいる。塩と砂糖は、瓶に移してしまえば見た目では分からない。舐めれば分かる。舐めるには時間がいる。数えていれば札の一枚も立てられたのかもしれないけれど、わたしは数えない。
ザンドが一歩踏み出した。
息を吸って、名前を言った。
何も起きなかった。
風は動かなかったし、男も止まらなかった。わたしの声が夜に出ていって、何にも当たらずに終わった。喉の感じはいつもと同じだ。使えたのだ。使えて、届く先が無かった。畳んだあとのやつを開いたのだと、そこで分かった。いつ畳んだのかは思い出せない。どこの町だったかも出てこない。助けた相手の顔も出てこない。出てくるのは、そのとき自分が何を食べていたかくらいだ。
男は歩くのをやめなかった。やめるようなことは、何も起きていない。
抱きかかえられた。両腕が背中で組まれて、そのまま持ち上げられた。近さは町のときと同じで、力だけが違った。息を全部出させられて、次を吸わせてもらえない。左の下のほうで、乾いた枝を膝で折るときの音がした。
「しばらく走れません。折れたところは、動かさなければ着きます」そう言う声が、耳の真上から降ってきた。「先生。走れなければ、助けられないでしょう」
地面に置かれた。丁寧に置かれた。丁寧なほうが痛かった。
トトが何か言った。言葉にはならなかった。その声のほうを、ザンドは見た。少しだけ笑って、手は出さない。町でも一度も出していない男だ。投げたのはいつも町の人間のほうだった。
トトの腕を掴んで、沢のほうへ転がった。
斜面は思ったより急で、思ったより長かった。石と、枝と、たぶん自分の肘。二度、木に当たって止まりかけて、二度とも滑った。掴んでいるほうの手だけは最後まで開かなかった。開けるほうの手は、もう持っていない。
下は水の音がした。
水は浅かった。膝より下しかないところで、石がどれも丸い。上から落ちてきたものが、長いことかけて角を落とされる場所だ。
冷たい石の上で仰向けになって、しばらく息のことだけを考えた。吸うと左が痛い。吐くともっと痛い。熱い鍋の柄を素手で握ったときに似ていて、握った瞬間より、離したあとのほうが長い。
横でトトが四つん這いになっていた。無事だ。無事な子は四つん這いになれる。
上のほうで赤いのが揺れて、消えた。それから白いのが上がった。細くて、まっすぐで、星のあるところまで届いている。あの煙は、この谷のどこからでも見える。せっかく点いた火だった。
ザンドは下りてこなかった。下りてくる理由が無い。走れない人間は、朝になっても走れない。
水の音だけがしばらく続いた。トトは動かないのに、石に当たる音がずっとしている。膝と、それから歯だ。
わたしは笑ってやろうとした。辛いときほど笑うことにしていて、それで得をした覚えは無い。息が半分しか入らないので、今回は音にもならなかった。
「おばさん」
小さいが、出た。
「うん」
「おれ、言うから」
「あとでいい」
「いま言う。いま言わないと」
トトは息を吸って、止めて、口を開けた。
「えっと……あの……」




