第5話「三回に一回でも、火は点く」
道は、朝から二人ぶんの足音しかしていない。
トゥーリを出て川を離れると、道はすぐ山にかかった。峠まで一日半だと宿で聞いた。聞いたのは三日目の朝で、あのときはまだ、この町の人がわたしに親切だった。
昨日の夜は、町の灯りが見えるところで休んだ。火は焚かなかった。あそこで火を焚くのは、手を挙げているのと同じだ。トトは毛布を頭までかぶって、朝までひとことも喋らなかった。
今日も喋らない。
柳のところで荷を担ぎ直したあと、この子はわたしより先に歩きだした。道は一本しかないので、迷いようもない。後ろを気にしていたのはわたしのほうで、トトは一度も振り返らなかった。
腹は減っていないかと聞いた。額の傷はまだ痛むかと聞いた。どちらにも返事は来ない。歩く速さだけは、ずっとわたしに合わせてある。合わせる気の無い子は、もっと速いか、もっと遅い。
拗ねている子は薪を拾わない。トトは道の脇の枯れ枝を歩きながら拾って、腕に抱えていた。折れ口の乾いたものだけを選んでいる。誰に教わったのだか。たぶんわたしだ。
「重かったら言って」
言わない。荷のほうは軽い。パンの残りと干し杏の袋、水袋、毛布が二枚。逃げられるぶんしか持たないと決めているので、こういう日はその決まりに感謝することになる。
山に入ると、道の両側がいっぺんに高くなった。濡れた土と、木の皮の匂いがする。川沿いにいたあいだは町の音がまだ後ろにあったのに、それも一つ目の折り返しで切れた。
「峠を越えたら、まず飯のうまいところを探そう。豆じゃないやつ。あんた、そろそろ豆の顔になってきてるよ」
返事は無い。無いのは分かっていて、それでも喋る。黙って歩くと足が速くなるからで、速くなると、この子が後ろで走ることになる。
「宿は屋根のあるところにしよう。屋根があって、湯が出て、蚤のいないところ。三つ揃ったのは見たことないけどね」
これにも何も来ない。木の匂いのする風が、道の下から上がってくるだけだった。
日が傾いて、道の色が赤くなって、そのあと急に何も見えなくなった。山の日暮れは、蓋を落とすみたいに早い。
道を外れて、風の来ない窪みを見つけた。古い焚き跡があって、囲いの石が黒くなっている。誰かが同じことを考えて、同じところに座ったということだ。石を並べ直して、風の来る側だけ二段に積んだ。
「水、汲んでくる」
「おれが行く」
今日、初めての声だった。トトは水袋をわたしの手から抜いて、沢の音のするほうへ下りていった。戻ってきて、袋をわたしの膝の横に置いた。それから、また口を閉じた。
礼を言うと、うなずいた。声はなかった。
火口箱の中身が湿っていた。麻屑を指でほぐすと、固まった塩をくずすときみたいに、粒が指の腹にくっついてくる。こういう夜は、火打ち石をいくら打っても無駄になる。
〈三つ熾しの手〉なら、わたしも名前を知っている。井戸の縁でこの子が唱えるのを、嫌になるほど聞いた。名前さえ言えば、湿っていようが一息で火が立つ。
そのかわり、今夜この国じゅうの飯が生になる。
「火、どうする」
「おれがやる」
二度目の声だった。
トトは膝をついて、麻屑を薄く広げて、その上に手をかざした。指を組んで、ほどいて、また組む。この子の手順は誰よりも丁寧だ。丁寧なのと点くのとは、別の話だけれど。
一回目は、麻屑が少し温かくなっただけだった。
トトは麻屑を集め直した。指の腹で押さえて、また薄くした。わたしは膝を抱えて、口を出さずにいた。他人が手を動かしているのを横で見ているのは、たいてい遅い。遅いままにしておくと決めているから、遅いままだ。
二回目。麻屑の真ん中に赤い点が一つ生まれて、息をかける前に消えた。トトの肩が上がって、下りた。わたしは手を出さない。手を出せば早い。早く点いた火は、明日の夜には役に立たない。
三回目。トトは指を組み直して、卵を割るときみたいに、手首から先だけを落とした。
点いた。
赤い点が広がって、麻屑の端を舐めて、細い枝へ移って、太いほうへ移った。トトは腹ばいになって下から息を入れている。顔が下から照らされて、額の傷の血が黒く見えた。
「点いた」
「点いたね」
「三回目」
「そうだね」
「手ぇ熱い」
「そりゃ火だからね。少し離れなさい。目に来るよ」
火のそばは、少し離れたところとは別の場所になる。膝から先だけが夏で、背中は秋のままだ。トトは火に近すぎるところまで寄っていって、そこで膝を抱えた。
湯を沸かして、パンの残りを炙った。干し杏の袋を口の開いたまま置いて、二人で交互に手を入れた。トトの靴下は、今日は両方とも足にはいっていた。夏なのに、山の夜は靴下がいる。
「おばさん。一個だけ聞いていい?」
三つ来なかった。一つで来た。この子の三つは、答えを取りにくるときの形だ。一つなら、取りにきていない。
「いいよ」
「おばさん、二年ずっと、おれが点けるの待ってたの」
「待ってない。寒くなかっただけ」
「去年の冬、めちゃくちゃ寒かったじゃん」
トトはそれ以上聞かなかった。枝を足して、足しすぎて、煙が出て、自分で咳をした。咳をしながら、まだ足していた。しばらくしてから、火のほうを見たまま言った。
「おばさんが点けたら、熾しの手、この世から無くなるんでしょ」
わたしは杏の袋の口を結んだ。
「そしたら、おれの三回に一回も無くなる」
「無くなったことも、おれ、分かんないんだ。あのばあちゃんみたいに。名前が出てこないって言ってたじゃん、鍵屋の。あれになるんだ、おれ」
訂正することは何も無かった。わたしは火を見ていた。トトも火を見ていた。三回目で点いた火は、一回目で点いた火と、燃え方が何も変わらない。誰が点けたかも、何回目だったかも、火のほうは何も覚えていない。覚えているのは点けた本人だけで、今夜はそれがこの子だ。
「おれ、ほんとは四回に一回」
「え」
「三回に一回って言ってた。サバ読んでた」
わたしが声を出して笑うと、トトは驚いた顔をして、それから自分も笑った。笑うと肩が動いて、火の照り返しがそのぶん揺れた。
「おばさん」
「なに」
「明日、峠?」
「昼には越える」
「峠って、越えたらもう下りるだけ?」
「下りるだけだよ。下りのほうがきつい。膝に来るから」
夜が更けて、風が窪みの上を通っていった。トトは毛布を引き寄せて、火のほうを向いて横になった。この組み方の火は朝までもたない。夜中に一度、枝を足すか、そのまま落とすかを決めることになる。決めるのはわたしの役目だった。今日までは。
それから、節を唱えはじめた。寝る前のあれだ。今夜は声が出ていた。わたしのいるほうを向いて、聞こえる大きさで、一つずつ、間を空けて。
わたしは黙って聞いていた。止める理由が無い。
最後に〈三つ熾しの手〉と言って、そのまま寝息になった。あの節は、いつも同じ名前で終わる。
火が熾になって、赤いだけになったころ、下生えを踏む音がした。
一定の間で、こっちへ来る。急いでいない。道を知っている者の足の運び方だ。獣なら、間はもっとばらばらになる。
わたしは足元の土に手を伸ばした。ひとかけ被せれば、この火は消える。消せば煙が立つ。まっすぐ白いのが上がって、暗い山では、それはこの火より遠くまで見える。煙の出ない伏せ方は、昨日まではこの世にあった。
トトは寝返りを打って、また火のほうを向いた。
わたしは手を戻した。
「せっかく点いたし」




