第4話「逃げ方だけは覚えている」
窓を閉めても、煙は入ってきた。
この町の家はどこも、朝のうちに竈の火へ灰をかぶせて、夕方まで持たせる。その灰が、今日は言うことを聞かない。どこの煙突からも細い煙が出っぱなしで、屋根の上に、粉をふるったみたいな薄いものが残っていた。風のない日だった。それが坂に沿って、ゆっくり下りていく。
トトは寝台の上で膝を抱えていた。買ってやらなかった鉄の魚の代わりに、毛糸の靴下を、片手にだけはめている。
「おばさん、煙くさい」
「窓は閉めた」
「閉めたのに入ってくるじゃん」
「そういう日なの」
「おばさん、荷、また結んでる」
「結ぶよ」
「今度はほどかないの」
「ほどかない」
「おばさん、あの人まだ町にいるのかな。おれのこと覚えてるかな。名前教えちゃったの、まずかった?」
「三つ来た」
「三つ言うと、おばさん答えてくれるから」
そういう仕組みだったのか。二年一緒にいて、初めて聞いた。
「まずくない。あの人は前から全部知ってた」
トトはうなずいて、うなずいたまま黙った。それから、思い出したみたいに言った。
「エリってさ。前歯、まだ生え変わってなかったんだって」
わたしは荷紐を結ぶ手を止めなかった。止めると、この子はもっと喋る。
「おばさん、山って越えるの? 越えたら次はどこ? 次の町にもさ、おれの知らない手ってある?」
「あるよ」
階段の下に宿の主人が立っていた。上がってはこない。手すりに手を置いたまま、天井の梁のあたりを見ている。昨日の夜、この人は湯の桶を部屋まで運んできて、礼を言った。あのときわたしは、両手を出さないと受け取れなかった。
「湯は、今日は無いよ」
「そう」
「……悪いね」
悪くはない。湯なんて、沸かせるのに沸かさないだけだ。この人は嘘のつき方を知らないから、嘘の内容まで下手だった。
出る前に、道中のパンを買いにいった。パン屋の女は台にパンを出してから、こちらへ押さずに手を引いた。銅貨を置いても取らない。取らないまま、わたしの後ろの通りを見ていた。
「持っていきな」
「払います」
「いいから。持っていって、それで行っとくれ。悪く思わないでおくれよ。あたしもここに住んでるんだから」
外で誰かが錠と言った。そのあとは、聞こえない大きさの声になった。
通りに人が立っていた。昼からずっと竈の前に張りついていた顔をしている。錠のことだけは、この町は自分たちで気づけたのだ。火のほうはまだ、炭が悪いということになっている。
「あんた、開けたんなら閉められるだろう」
「無理です」
「なら、なんで開けた」
わたしは黙っていた。この人たちの孫は、いまも町の中で息をして歩き回っている。それで足りるはずだと言ってやることもできたが、足りないから石が出てくるのだ。
石は、パン屋の軒に当たって落ちた。
「そいつだよ!」
わたしは知らない町に入ると、まず出口を見る。買い物より先に見る。十年ぶんの癖で、トトはこれを、わたしが方向音痴だからだと思っている。
路地は抽斗と同じだ。どこに何があるか知っている者にだけ、開ける順番がある。トゥーリの路地は段でつながっているから、荷車は入ってこられない。追う側は必ず荷車を置いてくる。置いているあいだに、こっちは三つ先の角まで行ける。
最初の家は、表から入って裏から出た。ここの戸は、どれも掛からない。掛からないから、他人の家がただの通り道になる。土間で女が竈の前にしゃがんで、灰を掻き回していた。顔を上げて、わたしを見て、また灰に戻った。追いかけるだけの元気が残っていない。
「……炭が悪いのかね」
誰に向かって言ったのでもないのだろう。声はかけずに裏の戸を抜けた。抜けたあとの戸は、閉めても掛からずに、風でまた開いた。
二軒目は、干し場から入って階段を下りた。この町は坂に張りついているので、家の裏口が隣の家の屋根と同じ高さにある。だから、上へ逃げているつもりで下へ出られる。
二軒目の裏で、トトがわたしの袖を掴んだ。この子が袖を掴むときは、いつも質問が来る。来なかった。掴んだ手を、掴んだまま離した。
物干しの綱が渡してある路地に入ったのが、まずかった。奥は塀で、両端から足音がした。
「回れ! そっち行ったぞ」
わたしは振り返らずに言った。
「トト。名前」
いつもなら聞き終わる前に返ってくる。この子は名前を出すのが早い。世界でいちばん早い。
何も来なかった。
振り返ると、トトはわたしを見ていた。口を固く閉じて、下唇を内側へ噛んでいる。怒った顔ではなかった。
物干し竿を蹴った。濡れたシーツが綱ごと落ちて、路地の片側を塞いだ。布は重い。濡れていればもっと重い。洗濯を干したことのある人間なら知っている。
水桶を踏み台にして塀へ上がり、トトの腕を引き上げて、隣の中庭へ下りた。
中庭には葡萄の蔓が渡してあって、その下に空の荷車があった。二人で車輪の間に入って、息を詰めた。石畳を走る足が、脇を通り過ぎていく。通り過ぎてから、一人だけ戻ってきて、荷台の布をめくった。上は見て、下は見なかった。荷車の下から見えるのは、いつも膝から下だけだ。
中庭を出たところで、また石が飛んだ。
一つ目は帽子のつばに当たった。二つ目がトトの額を掠めて、血がすぐ眉のところまで下りてきた。
わたしは袖でそれを拭いた。拭くだけで済ませた。名前は返ってこないと、もう知っている。
「痛い?」
トトは首を横に振った。首だけで。血の垂れた眉のほうは触らせなかった。
「門だ! 門を押さえろ!」
坂の上に、人がかたまって立っていた。門はそっちだ。この町に来た日も、昨日も、今朝も、わたしは坂を上がっている。荷を担いだ人間は上へ行くものだと、追う側は思っている。わたしもそう思ってもらえるように三日かけて上がったり下りたりしていた、と言えば格好はつくけれど、本当はただ宿が坂の上にあっただけだ。
わたしはトトの腕を取って、坂を下りた。
広場は畳まれていた。焼けた屋台の脚が転がったままで、灰の匂いだけがまだ濃い。踏み台の石には誰も乗っていない。その先に、荷を積む舟のための低い道がある。臭いし遠回りなので、町の人間は使わない。この町へ入る前に見ておいた道だった。
外れの柳まで来て、やっと歩く速さを落とした。坂の上の声はまだ続いていて、誰も下りてこない。
「使わなかったんじゃないからね」わたしは言った。「使うほどのことじゃなかっただけ。逃げただけだから」
返事がなかった。
トトは半歩後ろを歩いていた。歩きながら喋る子だ。食べながらも喋る。その子が、口を閉じたまま、足だけ動かしている。
「なんか言いなよ。トト。聞こえてる?」
言わなかった。聞こえてはいる。呼ぶと肩が動くので、それだけは分かった。
柳の下で荷を下ろした。パンをちぎって半分渡すと、トトは受け取って食べた。食べるだけ食べて、それから、わたしから少し離れて川のほうを向いて座った。背中を向けたのは初めてだ。
しばらくして、その背中が小さく動いた。
唇だけが動いていた。声は出ていない。乾いた布巾を畳むみたいな、音のしない動き方だった。あの節だ。この子が寝る前に必ずやる、名前を順番に並べていく節。
わたしのほうを向いていない。聞こえないところでやっている。
わたしは干し杏の袋を出して、後ろから差し出した。トトは振り返らずに、手だけ伸ばして受け取った。
受け取ってから、また唇だけ動かしていた。




