第3話「あなたが消したもので誰が死にましたか」
三日目の広場には市が立っていた。坂の下から、鍋を洗うみたいな音がずっと上がってくる。豆と鉄と、夏の終わりの埃の匂いがした。
わたしは隅の石段に腰かけて、もらいものの干し肉を裂いていた。昨日この町の誰かがくれたものだ。ただでもらったものは、たいてい後から高くつく。
町はまだ機嫌がいい。ただ、細かいところが少しずつおかしくなっていた。青物屋は籠の蓋に石を載せていたし、犬の飼い主は紐を手に持ったまま買い物をしている。両替屋の地下の入口には、まだ若い衆が座らされていた。守るものはもう無いのに、交代の番だけがきちんと回っている。誰も理由を言葉にできない。「近ごろ戸が緩くてねえ」で話が終わる。
トトは水槽のところで子供に囲まれて、鉄の魚を振り回していた。
「おばさん、これ買って。鉄の魚。魚だよ」
「いらない」
「おばさん金持ってるじゃん。昨日もらったやつ」
「あれは食べ物」
その男は、人の間をぶつからずに歩いてきた。背は高くない。旅の上着の肘に継ぎが当ててあって、布の色がきちんと合わせてあった。ああいうのを自分で縫う男は、だいたい面倒くさい。
男はわたしの前で足を止めて、つばの下を覗き込んだ。それから、驚くほど嬉しそうに笑った。
「先生」
わたしは干し肉を油紙に包み直した。
「三つだけ、聞かせてもらえますか。先生、この町であなたが開けた扉は、どれですか」
答える気はなかった。答えなくても、広場が答えた。両替屋の、地下の、あの石の扉だよ、あんた見なかったのかい――。みんな自分の手柄みたいに喋った。男は一つずつ丁寧にうなずいて、また笑った。
「ありがとうございます。では二つ目です。この町で、いま錠の掛かる戸は、どれですか」
誰も答えなかった。
鍋を洗う音が止まった。干した洗濯物を急に取り込むみたいに、広場の空気だけが先に変わった。青物屋が籠の石を見た。犬の飼い主が紐を見た。ミナが人垣の後ろで、自分の右手を持ち上げて、明かりのほうへ透かした。
「三つ目は、あとにします」
男は広場の真ん中の踏み台に上がった。荷を載せるための石で、市の日には子供が跳んで遊ぶやつだ。上がってしまえば、あとは誰でも喋れる。
「ヴェイ・ザンドといいます。北の者です。雪の来るのが早い土地で、うちは長夜の灯しで食っていました。灯りは冬に売れます。夜が長いですから。坑にも、産屋にも、家畜の小屋にも要る。……冬に売るものが無くなった家は、どうやって冬を越すと思いますか」
誰も答えない。答えを知っている人間は、この広場にわたし一人しかいない。
三年前だ。山の坑が落ちて、中に人がいて、夜通し灯りが要った。わたしは名前を知っていたから、使った。人は見つかって、よかったね、と言われた。あの晩、北の空がどうなったかは見ていない。
ザンドは指を折らなかった。名前を、一つずつ言った。豆を器に落とすみたいに、間を空けて。
「ハルド・ザンド。俺に灯りの掛け方を教えた男です。ネイ・ザンド。ハルドの女房で、俺の飯をずっと作ってくれた。エリ。前歯がまだ生え変わっていなかった。ヨム。エリの兄で、犬が好きでした。トーサ・ザンド。俺の祖母です。……それから、カム」
「カムは、俺の家の者ではありません。ただ、うちに冬のあいだ置いていた子です」
わたしは数えなかった。数えるのが嫌いだから、といつも自分に言っている。
市の音はもうしなかった。トトが石段まで戻ってきて、わたしの隣に立っていた。鉄の魚を握ったままだった。
「ねえ、あの人だれ。なんでおばさんのこと先生って言うの。おばさん、先生なの」
「黙ってて」
ザンドは踏み台の上で泣いていた。笑ったままの顔で、涙だけが出ている。器用な泣き方だった。
「みなさん、先生を責めないでください。先生は助けただけです。俺の家の者を殺したのは、助けた結果です。責めるのは筋が違う。そうでしょう?」
誰かが後ろへ一歩下がった。それが伝わって、わたしの周りの石畳だけが広くなった。
人が下がると、どこかで詰まる。詰まったところで押し合いになって、油の屋台がひっくり返った。鍋の油が石畳を走り、屋台の炭を拾って、布に染みが広がるみたいに火になった。市の日の広場は、乾いた木と乾いた布でできている。
誰かが火を伏せる手の名を叫んだ。叫んだだけだった。押し合いの中に、指を動かせる場所に立っている者がいない。
ミナは人垣の後ろにいた。逃げるほうの足が、もう遅い人だ。
わたしは石段を下りた。わたしの周りだけは、さっきから空いている。下りながら、使わないで済ませる方法を探した。水槽は遠い。人が多すぎて筵も回らない。探しているあいだに火は伸びて、屋台の脚から幌へ移った。
「〈灰かぶり伏せの手〉!」
トトが叫んだ。聞かれる前にこの子が名前を出したのは、初めてだった。
わたしは息を吸って、名前を言った。火は暴れなかった。石畳の上で急に低くなって、白くなって、灰になった。油の匂いだけが残って、誰かが尻もちをつき、誰かが笑い、誰かが泣きだした。
それから、町じゅうの煙突から、いっせいに煙が上がった。
どこの家の竈にも、朝から埋めておいた火がある。伏せてある火だ。伏せておく手が無くなったので、みんな起き上がった。今夜この町の女たちは全員、竈の前で首をかしげる。歳のせいだ、火加減が下手になった、炭が悪い。鍛冶の炉も、もう落とせない。
誰も気づかない。気づいているのは、いつもわたしだけだ。
男が一人、屋台の焼けた脚を掴んで振り上げかけた。ザンドが踏み台から下りて、その腕に手を置いた。
「やめてください。先生はいま、あなたがたの町を助けたところです」
男は腕を下ろした。下ろしてしまってから、自分が何を握っていたのか、分からない顔になった。ザンドはその肩を二度叩いてから、わたしの前へ来た。近い。上着から、一度雨に濡れた布の匂いがした。
「先生。いま、何を消しましたか」
わたしは何も言わなかった。この男は、消えた側から数えて質問ができる、たぶん世界で唯一の人間だ。
ザンドはわたしを抱きしめた。骨が鳴るくらい強く、両腕で。振りほどけたのに、振りほどかなかった。この人がここで刃物を出しても、広場の誰も止めなかったと思う。
「三つ目です」耳のすぐそばで言った。「先生。あなたが消したもので、誰が死にましたか」
わたしは、覚えている名前を思い出しはじめた。〈締め戻しの開けの手〉。〈長夜の灯しの手〉。〈灰かぶり伏せの手〉。その前も、そのもっと前も。ぜんぶ術の名前だった。人の名前は、一つも入っていなかった。
「知らない」
「知っています。俺が覚えていますから」ザンドは腕を離して、また嬉しそうに笑った。「ハルド・ザンド。ネイ・ザンド。エリ――」
わたしはトトの手を引いて、人垣の割れているほうへ歩いた。誰も触ってこなかった。この町に入った日は、知らない男に背中を叩かれた。触ってこないというのは、もう味方ではないということだ。
「おばさん」トトが小さい声で言った。「おれ、覚えちゃった。名前。覚えるつもりなかったのに」
この子は覚えるのが速い。それしか取り柄がない。
坂の途中の水飲み場で足を止めた。鉄の柄杓は鎖につないだままで、その鎖はもう、どこにも留まっていない。杓を持ち上げて、首を曲げずに水を飲んだ。この町に入った日は、鎖の長さぶんだけ首を曲げないと飲めなかった。
後ろで、まだ名前が続いていた。




