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しまい手 ―― わたしが使った魔法は、世界から消える  作者: モリタ・ハク


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第2話「英雄でいられるのは三日」

朝、広場で知らない女の人に茹で豆をもらった。その隣の男からは干し肉をもらって、そのまた隣の婆さんからは毛糸の靴下をもらった。夏なのに。


 トゥーリの機嫌は、火を落としたあとの鍋みたいなものらしい。用が済んで一晩たっても、まだ煮えている。両替屋の孫が助かった話を、その場にいなかった人ほど詳しく喋った。帽子のつばを目の上まで下ろして、豆を齧りながら聞いていた。話の中のわたしは背が高くて、声が低くて、鉄の扉を素手で持ち上げたことになっていた。


 トトは井戸の縁に立って、子供を何人もぶら下げていた。得意げなときのこの子は、声が半音上がる。


「〈三つ熾しの手〉、〈地下り汲みの手〉、〈骨継ぎの手〉、〈釘打ち留めの手〉——」


 覚えた名前を順番に唱えている。歌みたいな節がついていて、この子はそうやって全部覚えた。子供たちは意味も分からずに口を合わせ、途中で舌が回らなくなって笑った。


 その節が、一か所でつんのめった。


 トトは一拍だけ黙って、それから何事もなかったみたいに次の名前へ飛んだ。まな板に置いたはずのものが無いのに、包丁だけ下ろしたような間だった。本人は気づいていない。気づいたのはわたしだけで、わたしは豆の皮を吐いた。


「ねえ、じゃあ、戸の、あれは? 昨日のやつ」


「あれって何」


「あれだよ。あの、鍵の」


 子供は言葉を探して、探すのに飽きて、井戸の水に手を突っ込んだ。トトも一緒になって笑い、また次の名前から唱えはじめた。二人とも、探しているものがもうこの世に無いことを知らない。


 昼までに何人かがわたしのところへ来て、同じことを頼んだ。みんな途中で言葉に詰まる。


「あんた、うちの戸も、その、なんだ、頼めないかい」


「無理です」


「またまた」


 みんな笑って、酒だの塩漬けだのを置いていった。この町の戸はどこも開いたままだ。風が通って涼しくていいと言う人までいた。祭りの日みたいだと。祭りは終われば元に戻るのに。


 両替屋だけは、若い衆を二人、地下の入口に座らせていた。自慢の扉は開いたままで、押せばまた開く。座っているほうも何を守っているのか分からない顔で、片方は膝の上で豆を剥いていた。


 宿の主人は、部屋を三日ぶんただにすると言った。


「英雄でいられるのは三日さ。四日目からはちゃんと宿賃をもらうよ」


「良心的」


「うちは良心だけで建ってるからね」


 その主人が、寝る前に湯の入った桶を運んできた。扉の前で、ありがとう、と言った。


 人に礼を言われたのは四年ぶりだった。四年前に何があったかは、まあ、いい。ただ、桶は両手で受け取らないと持てない重さで、受け取っているあいだは相手の顔を見ていないといけなかった。ああいうのを続けていると、逃げるのが下手になる。


 夜明けに出るつもりだった。荷はもう結んである。


「おばさん、なんでもう結んでんの。まだ二日あるじゃん。ただなんでしょ」


「わたしは朝が好きなの」


「嘘だ。おばさん昼まで寝るじゃん」


 トトは寝台に腹ばいになって、毛糸の靴下を両手にはめていた。指の分かれていない手で、枕を掴んでは放している。


「おれ、ここにいたい」


 それだけ言って、こっちを見なかった。この子が質問を三つ続けないときは、本気のときだ。


 湯を使ってから、わたしは宿を出た。夜明けを待つのが面倒になったわけではなくて、窓から見たら、坂の下に灯りが一つだけ残っていたからだ。


 鍵屋の工房だった。昨日、わたしの手を握ってきた人の店だ。名前はミナというらしい。町の人が三度もそう呼ぶのを聞いた。


 戸は開いていた。この町の戸はもう全部開いている。開いた戸の奥から、油と鉄粉の匂いがした。


 壁一面に鍵の見本が吊るしてあった。大きいのも、飾りの彫ってあるのも、指の先くらいのも。どれももう、何の役にも立たない。


 ミナは作業台の前に立って、鉄の掛け金に指をかけていた。掛け金を受けの穴に落とす。それだけの動きだ。指が穴の手前まで行って、止まって、戻る。もう一度行って、また戻る。順番を思い出そうとしているみたいだった。順番なんて無い。落とすだけだ。


 ミナは掛け金を置いて、自分の右手を明かりに透かした。鉄を触りつづけた手だった。指の節が全部ふくらんでいる。


「馬鹿になったねえ」


 誰もいないと思って言ったのだと思う。わたしは戸の外にいた。


「歳だよ。夕べは出来たんだけどねえ」


 夕べも出来ていない。わたしは知っている。この人がこれから死ぬまでの毎晩、同じことを同じ声で言うのも知っている。黙っているのは親切ではなくて、ただの卑怯だ。それでも黙っているほうを選ぶのだから、わたしは卑怯者ということでいい。


 戸を押して中に入った。ミナが振り返って、それから急に背筋を伸ばした。客商売の背中だった。


「木で作ります」


「なんだって」


「閂です。木の。穴を開けて、落とすだけのやつ。指が覚えてなくても掛かる」


「あんたねえ、そんなことしなくたって、あれをもう一回やってくれれば……」


 ミナは言葉を探した。探して、見つからなくて、笑った。


「歳だね。名前が出てこない」


 トトが後ろから顔を出した。宿からついてきていたらしい。靴下は片方だけ手にはめたままだった。


「おばさん、〈釘打ち留めの手〉なら一発じゃん。おれ名前言えるよ。〈釘打ち留めの手〉」


「言わなくていい」


「なんで。だって、こんな夜中に木なんか削んなくたって——」


「うるさい。錐を取って」


 板を切って、穴を開けて、樫の棒を削った。ミナの工房には道具だけは山ほどあって、術で食ってきた人の道具は、どれも新品みたいに綺麗だった。わたしは大工ではないから、穴は曲がったし、棒は削るたびに細くなって、最後は太さの揃わない大根みたいになった。窓の外が白くなるころ、閂はやっと落ちるようになった。落ちるだけだ。鍵は掛からない。この町ではもう、どこの鍵も掛からない。


 途中でトトは木屑の上に座り込んで、そのまま眠った。削り屑を握ったまま口を開けていて、寝言で何か唱えている。名前だった。どれもまだ、この世にある名前だった。


 ミナは閂を三度落として、三度上げた。それから四度目を落として、そのまま手を離さずにいた。


「あんた、器用だねえ」


「不器用です。見れば分かるでしょ」


 トトが起きてきて、横からわたしの手首を掴んで持ち上げた。


「おばさん、指から血出てる」


「知ってる」


「痛くないの」


「痛い」


「じゃあ、なんで——」


 三つ目が来る前に、わたしは外へ出た。工房の戸を外から閉めた。木の閂は内側にしか付いていないので、戸はただ閉まっただけで、掛からなかった。


 坂を上がりながら、トトが思い出したように言った。


「そういえばさ。昨日、広場でおじさんに聞かれたよ。あの人はどこから来たんですか、いつからここにいるんですか、次はどこへ行くんですかって。三つ。おれと同じで三つ」


「なんて答えたの」


「全部。だって、おばさんのこと自慢してもいいでしょ。あの人、すごい笑ってた。笑いながら泣いてたけど。目にゴミでも入ったのかな」


 何も言わずに坂を上がった。宿では階下で主人が湯を沸かしていて、パン屋の煙も上がっている。開いたままの戸から、どこかの家の朝飯の匂いが道へ出ていた。


 部屋に戻って、結んだばかりの荷紐をほどいた。結ぶのは得意なのに、ほどくのはいつまでたっても下手だ。


 英雄でいられるのは三日らしい。三日もいらない、とは言わないでおいた。

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