第1話「その鍵は、もう誰も開けられない」
わたしは、この世にあるどんな魔法でも使える。修行も詠唱もいらない。一度だけなら、誰よりも上手に。
だから、なるべく使わないようにしている。
トゥーリの町は、坂の上から見ると屋根が魚の鱗みたいに光っていた。夏の終わりの風は乾いていて、洗濯物と鉄の匂いがここまで上がってくる。悪くない町だ。長居さえしなければ。
坂の途中の水飲み場では、鉄の柄杓が鎖でつないであった。トゥーリは錠前の町だ。柄杓まで錠で留める。杓を持ち上げて、鎖の長さぶんだけ首を曲げて水を飲んだ。
干し杏を齧りながら坂を下りる。後ろでトトが喋っている。この子は歩きながら喋る。喋りながら食べる。たぶん寝ているあいだも喋っている。
この子と旅を始めて二年になる。拾ったときは字も読めなかったのに、いまは術の名前を寝言で唱える。覚えるのだけは、誰よりも速い子だった。
「おばさん、聞いてる? おれ、熾しの手ができたんだって。三回に一回だけど。三回に一回ってすごくない?」
「すごいすごい」
「いま聞いてなかったでしょ」
聞いてはいた。ただ、返事をすると必ず質問が三つ来る。トトの質問はいつも三つで一組になっていて、パンを三つに割るみたいに律儀だ。だから黙っていた。
「おばさんも熾しの手、使えるんでしょ。ねえ、なんで使わないの。見せてよ」
「わたしは寒がりじゃないから」
「いま夏だし」
坂の下で、人が固まっていた。
三十人くらいが両替屋の前に集まって、みんな同じ方向を見下ろしている。荷車が二台、道の真ん中に置き去りにされていた。市の日でもないのに、青物屋が店を空けて出てきている。人が集まっているところには近づかない。それがわたしの十年の教訓で、そして破った回数のほうが多い教訓だ。
「なんかあったのかな。行こうよ。ねえ」
「行かない」
トトはもう走っていた。
両替屋の地下の、金庫室の扉の前で、鍵屋のばあさんが膝をついていた。手のひらに、折れた鍵の頭が乗っている。
「掛かっちまった」と、ばあさんは誰にでもなく言った。「中に、二人いる」
両替屋の孫だという。かくれんぼで入り込んで、扉が閉まって、開けようとした鍵が折れた。話としてはそれだけだ。腕の太さの閂が三本、もう落ちている。術を掛けないかぎり、内からも外からも動かない扉だった。
ばあさんの手は、指の関節が全部太くなっていた。一生ぶん鉄を触ってきた手だ。その手が、折れた鍵の頭を三度なでて、また同じところをなでた。他にやることが見つからないときの手の動きだった。
群衆の中の誰かが、開けの手を使える男の名前を言った。別の誰かが、その男は昨日から隣町へ出稼ぎに行っていると言った。往復で半日。
「あの部屋は、半日もたん。閂が落ちると、空気の通り道が下の一筋しか残らんのさ。うちの人が作った部屋なんだ。よく出来てるんだよ、ほんとに」
ばあさんはそう言って、扉の面に耳をつけた。中で子供が板を叩く音がしていて、その音が、さっきよりも間遠になっているのが外まで聞こえた。
わたしは帽子のつばを下げて、一歩後ろへ下がった。
こういうときの正しいやり方を、わたしはよく知っている。背を向けて、坂を上がって、次の町へ行く。そうすれば、何も消えない。扉の向こうの二人がどうなったかを、わたしは知らずに済む。世界は昨日と同じままで、明日も同じままだ。
誰かの母親が石畳に膝をついて、扉に向かって名前を呼びはじめた。同じ名前を、間を空けずに何度も呼ぶ。呼ばれているほうの音は、もう返ってこなかった。
「ねえ、あのばあちゃん、さっきから同じとこ撫でてるよ。あれって開かないってことでしょ。半日って、あとどれくらい残ってんの」
「知らない」
「おばさん、知ってる顔してるけど」
袖が引っぱられた。トトがわたしの服を掴んで、下から顔を覗き込んでいる。
「おばさん」
「離して」
「なんで泣きそうな顔してんの」
わたしは泣きそうな顔をしていたらしい。自分の顔のことは、いつもこの子のほうが詳しい。
「トト。錠を開ける手のこと、正式にはなんて言うんだっけ」
「〈締め戻しの開けの手〉」
トトは一度も詰まらずに言った。三回に一回しか火を熾せない子が、名前だけは全部覚えている。この子の頭の中には、この世のあらゆる術の名前が、字の下手な帳面みたいにびっしり並んでいる。
わたしは、名前を知らない術は使えない。だからこの子が要る。
人をかき分けて前に出た。ばあさんが顔を上げる。目の下の皮が薄い。
「開けます」
「あんた、使い手かい」
「そんなところ」
扉に手を当てた。鉄は日陰でも生温かった。中の音が、また一つ遠くなった。
手を当てるたびに、わたしは同じことを考える。やめれば、この町の明日は今日と同じだ。やめなければ、明日はもう戻らない。
息を吸って、名前を言った。
光も音もしなかった。ただ、扉の重さが急になくなった。押したら開いた。台所の戸くらいの手応えだった。
子供が二人、汗と埃で真っ黒な顔をして転がり出てきて、わあわあ泣いた。母親が二人まとめて抱え込んで、そのまま石畳に座り込んだ。群衆が声を上げて、誰かがわたしの背中を叩いた。ばあさんがわたしの手を両手で握って、何か言った。何を言われたのかは覚えていない。
わたしはそのとき、町の音のほうを聞いていた。
カチ。
両替屋の金庫の扉が、ひとりでに開いた。
カチ、カチ。
通りの向かいの家の戸が開いた。その隣の戸も開いた。荷車の鎖が落ちて、犬の首輪が外れて、犬が自分で驚いて跳ねた。女の首の留め金が外れて、首飾りが石畳に散らばった。坂の上のほうから、遠く、牢の格子が開く音がした。
カチ、カチ、カチ、カチ。
町じゅうの錠が、いっせいに開いた。そして、二度と閉まらない。
誰も気づいていない。みんな子供を見て泣いたり笑ったりしている。首飾りを拾った女は、留め金が壊れたと思って舌打ちしただけだった。
通りの先で、まだ十四くらいの見習いが、店の戸に錠を掛け直そうとしていた。何度やっても掛からない。手を止めて、自分の指を見て、それからもう一度やって、また掛からない。あの子はこれから一生、あの手つきのまま生きていく。
気づいているのは、わたしだけだ。
この世から、開けの手が消えた。錠を開ける術も、掛ける術も、それを教える言葉も、それで飯を食ってきた人間の指の記憶も、まとめて消えた。わたしが使ったからだ。
わたしが使うと、その魔法は世界から消える。
鍵屋のばあさんが立ち上がって、開いたままの金庫の扉を見た。それから自分の手のひらを、裏返して、もう一度見た。
「……もう一度、掛けてくれるかい」
「無理です」
「なんでだい」
わたしは答えなかった。答えを持っていないからではなくて、答えを言うと、この人の顔が変わるのが分かっていたからだ。
トトがまた袖を引いた。
「おばさん、いま何した?」
「人助け」
「ふうん」
人の輪はまだ崩れていない。子供の名前を呼ぶ声と、笑い声と、わたしを褒める声が、坂の下のほうへ流れていく。いい町だ。柄杓まで鎖でつないである町。
トトはわたしの背中を見ている。わたしはさっきから、荷紐を結び直していた。
「じゃあ、なんで逃げる支度してんの」




