第54話「おれ、この道の先、知ってる」
継ぎ場を出てしばらくしたころ、この子が説明を始めた。
聞いていない。聞いていないのに、話し出した。この子が自分から喋るときは、たいてい質問が三つ先に来る。それが無いまま始まるのは珍しい。
「この先さ、しばらく下りなんだ。下りきると川が出てきて、そこから細くなる。細くなったところに水車があって、その先が平らになるんだよ」
「詳しいね」
「詳しいよ」
それだけ言って、この子は前を向いた。前を向いたまま、歩く速さを落とした。こちらの脚に合わせているのだが、合わせ方が、いつもより雑だった。
道は、本当に下りだった。
下りは楽ではない。潰した側へ体を預けられないぶん、登りより始末が悪い。棒で受けて、右で送って、また棒で受ける。この繰り返しを半日やると、肩のほうが先に音を上げる。
途中で、登ってくる者に二度会った。どちらも荷を持っていない。荷を持たない者がこの時刻に登っていくのは、この先に家があるということだ。家が無ければ、日の暮れに合わせて宿場へ入る。
一度だけ、車を下ろしている一行を追い越した。一台に人が四人付いていて、そのうち三人は後ろで踏ん張るためだけにいる。追い越すとき、誰もこちらを見なかった。
二度とも、この子は道を空けて、通り過ぎてから歩き出した。空け方に無駄が無い。無駄が無いのは三年こちらと歩いてきたせいだと、これまでは思っていた。
川は、言ったとおりに出てきた。
出てきたところは幅があって、そこから上流へ向かうにつれて細くなる。細くなるというより、道のほうが川へ寄っていく。寄っていくと、水の音が大きくなった。
水車は、無かった。あったはずの場所は分かる。石を組んだ台が残っていて、水を引いてきた溝の跡が、草の下に筋になっている。板の車のほうは、材ごと持っていかれたらしい。
石の台は、まだしっかりしている。組んだ石の目に草が入っていて、抜こうと思えば抜けるが、抜く者がいない。溝の跡は、水の来ていた側だけ土の色が黒かった。
水車が無くなると、粉を挽く場所が変わる。変わった先まで運ぶのは荷で、運ぶ手間はどこかの値に乗る。乗った値を払うのは、ここらに住んでいる者だ。
この子は、そこで足を止めた。止めて、しばらく台のところを見ていた。
「無いね」
「無いな」
「いつのだい、あんたの見たのは」
「分かんない。おれ、小さかったから」
それきり、この子は歩き出した。歩き出してからは、説明をしなかった。
昼は、川の石の上で食べた。継ぎ場で買った麦の餅と、干し飯の残りだ。餅は固くて、水に浸してからでないと歯が立たない。
浸して待っていると、この子が言った。
「おばさん、怒らない?」
「怒るような話かい」
「分かんない。おれ、黙ってたわけじゃないんだ。聞かれなかっただけで」
「そうだね。聞かなかったね」
三年、聞かなかった。この子がどこから来たかを、こちらは一度も尋ねていない。尋ねる用が無かったからだ。この子には名前の在庫があって、その在庫がどこで仕入れられたものかは、使うぶんには関係が無い。
関係が無いと思っていたのは、こちらの都合だ。
「おれ、この道の先、知ってる」
「知ってるだろうね。見てたら分かるよ」
「歩いたんだ。三つか、四つのころ。おばさんと会うずっと前」
この子は、そこで餅を割った。割った片方が、こちらの膝の上へ来る。話の途中でこれをやるのは、話を続けるつもりがあるという合図になる。
「分かれのとこまでは、おれ、覚えてるんだよ。分かれてから右は、二日くらい。二日行くと家があるんだ」
「家があるのかい」
「ある。あると思う。あるかどうかは、行かないと分かんないけど」
こちらは、そこで引いた。引いたのは遠慮ではない。踏み込む先が、どこにも空いていなかった。この子の言い方には隙間が一つも無い。あると思う、行かないと分からない。その二つで、言えることは全部言ってしまっている。
川の音が、少し高くなった。石の上に座っていると、水の冷えが尻から上がってくる。上がってくるのを我慢していると、脚の布のあたりが楽になった。冷やすほうがいいのだろうが、冷やしすぎると歩けなくなる。
この子は、餅を食べ終えて、指を水につけていた。
こちらが何をこの世から消してきたかを、この子は一つも知らない。何も知らされないまま、三年、毎日その名前を渡してきた。いま、隣で帰る先の話をしているこの子は、そちらの勘定も一つも持っていない。
持たせていないのは、こちらだ。持たせずに済ませてきたぶんだけ、この子の荷は軽い。
「川べりで、おれが紐の色覚えてたじゃん」
「覚えてたね」
「あれさ、おれ、教わったんじゃないんだ。子供のとき、荷に付いてるの見てただけ。だから、山が赤なのは知ってるけど、なんで赤なのかは知らない」
「知らなくても、当たってたよ」
「当たってたね」
この子は、少し笑った。笑ったが、得意そうな顔ではなかった。
午後は、また下りだった。
道の両側に、刈り残した草が伸びている。伸びたところが倒れて、倒れた向きが全部同じだった。風が一方からしか来ない場所なのだろう。冬に入れば、ここは吹きさらしになる。
下りきったところで、道が広くなった。広くなったところに、木の柱が一本立っている。上のほうに横木が付いていて、横木には何か書いてあったらしい跡がある。
跡だけだ。字は残っていない。削れたのか、消したのかは分からない。この道では、どちらでも同じことだ。柱は、そこに道が分かれることだけを示している。
分かれは、柱の少し先にあった。右は、草が低い。通る者がいるということだ。左は、轍が深い。荷の通る道は左だと、見るだけで分かる。
二つの道は、分かれてすぐに見えなくなる。右は木の陰へ入り、左は下って回り込む。柱の立っている場所からでは、どちらの先も見通せない。
この子は、柱のところで足を止めなかった。通り過ぎて、少し行った先で首だけ回してきた。
「おばさん、あの柱、字が消えてるよ。前は書いてあったのかな。書いてあったんなら、なんで消したんだろ」
「消えたんだろうね。書いた人がいなくなると、たいてい消えるままになる」
「じゃあ、道の名前も無いんだ」
「無いね。無くても、みんな歩いてるよ」
「今日はどっちも行かないよね。もう暗くなるもん」
「行かないよ。その先の宿場までだ」
「じゃあ、明日だね」
それだけ言って、また前を向いた。
こちらは、柱のところで一度止まった。
右の草が低いのは、歩く者がいるからだ。荷は通らない。荷が通らない道の先に、二日行くと家がある。
この子は、それを三年、一度も言わなかった。言わなかったのではない。この子は、聞かれたことには必ず答えてきた。聞かずに三年歩いてきたのは、こちらのほうだ。




