第52話「あれ、下まで行っちゃうよ」
峠の上で、二人とも別々の支度をしていた。
こちらは脚だ。左の脛へ、宿で分けてもらった布を巻く。きつく巻くと血が止まり、緩いと擦れる。その間のところが一つだけあって、それを探すのに手間がかかる。
この子は履物だった。緒の結び目を、足に当たらない側へ送る結び方をやっている。昨日の泥で緒が伸びたので、伸びたぶんを詰めてから回す。
「おばさん、その脚、あとどのくらいで治るの」
「治らないよ。引くだけだ」
「引くって、どのくらい」
「さあね。引いたころには、引く前がどうだったか忘れてる」
この子は、結び目を回す手を止めないまま聞いていた。聞きながら手が動いているときは、答えを半分しか取っていない。取らないほうが、この子には都合がいいのだろう。
どちらも、今日のための支度ではない。今日より先で困らないための支度だ。
棒を一本、杖の代わりに宿でもらってきた。心棒の替えの、折れたやつだ。折れたぶん短くて、突くとちょうど脇の高さに来る。
下りは、女の言ったとおり長かった。
道が山の腹を回りながら落ちていく。回るところで外側が縁になって、縁の外は下まで木が生えている。木があるうちは落ちても止まるが、止まったところから上がってくる道は無い。
こちらの下り方は遅い。左に体重が乗らないので、右と棒で交互に受ける。受けるたびに一拍止まる。
この子は、先で待っては、また歩く。待つあいだ、道の端の石をひっくり返して遊んでいる。
昼前に、前を行く一行に追いついた。追いついたのではなくて、向こうが止まっていた。
車が二台。前の一台は、もう回りの半分を過ぎている。後ろの一台が、縁の手前で止まって、車輪に石を噛ませていた。
噛ませているのは、背の低い男だ。前で綱を持っているのは、もっと若い。二人で一台を下ろしている。
「二人でやるもんかね、あれ」
「二人だと足りないの」
「足りないよ。下りは、押さえるほうに人が要る」
「あの人たち、なんで二人で下ろすの。待てばいいのに。上から来る人と合わせればいいのに」
「待つと、日が暮れるからだろうね」
「暮れると、どうなるの」
「暮れてからやるより、二人でいまやるほうが安い。そう踏んだんだよ」
それを聞くと、この子は前のほうへ目を戻した。戻してから、もう一度こちらの顔を見た。
二台目が動き出した。
動き出してすぐ、石が外れた。外れる音は小さい。小さいのに、そのあとの音が変わる。車輪が土を噛む音から、土を擦る音になった。
綱を持っている若いのが、踏ん張った。踏ん張ったところで、足のほうが先に滑った。
滑ると、綱は手から離れない。離れないように巻いているからだ。巻いた綱ごと、体が前へ出た。
車は、そのまま回りへ入っていく。回りの外は縁だ。
「あれ、下まで行っちゃうよ」
この子が言った。こちらは、もう走っていた。
走っていたつもりだった。実際には、二歩目で左が抜けて、棒のほうへ体が倒れた。倒れたところで止まった。
止まったところから、車までは遠い。この脚で詰められる距離ではない。
詰められないと分かるのに、要ったのは一拍だ。
こちらは、この子のほうを見た。
この子は、こちらを見ていた。口は閉じている。昨日、閉じさせられたままの形で閉じている。
こちらは頷いた。それで足りた。
「〈長坂止めの手〉」
この子の声は、いつもの暗誦の調子だった。並べるときと同じ速さで、余計なものを一つも付けずに言った。
その名を受け取って、指を組んだ。
組んだ形は、この手のためのものだ。初めて組む形なのに、迷うところが一つも無い。三年、毎回そうだった。
撃った。車が止まった。
止まり方が、噛ませたときの止まり方と違う。噛ませると、車は一度沈んでから止まる。この止まり方は沈まない。坂の途中で、坂が無くなったような止まり方をした。
綱を巻いた若いのは、そのまま前へ転んだ。転んで、起きて、綱を見た。
背の低い男が走ってきて、車輪の下へ石を入れた。入れてから、上のほうを見た。
「石、噛んでたよな」
「噛んでました。外れたんです」
「外れたのが、また噛んだのか」
二人は、車輪のまわりを長いこと調べていた。調べても、噛んだ跡はどこにも無い。無いまま、そのうち二人とも手を下ろした。
こちらのほうは、誰も見ていない。
その場では、何も起きなかった。煙も出なければ、音も鳴らない。空気の抜けたような感じすら無い。撃った側にだけ、組んだ指の形が残っている。
助かった二人は、車を縁から離して、綱を巻き直していた。若いのは手を見ている。綱で擦れたところが、赤くなっているのだろう。
「大丈夫かい」
「平気です。巻き方が悪かったんで」
「巻き方は悪くないよ。人が足りてないだけだ」
若いのは、それには何も返さなかった。黙っているほうが揉めずに済むと知っている年ではないので、たぶん本当に何も思いつかなかっただけだ。
この子は、こちらのそばまで来て、棒を拾って渡した。渡すときに、一度だけ口を開けかけた。
「言わないよ」
「言ってないだろ」
「言ってない」
それで済ませた。この子には、自分が渡したものの正体が見えていない。見えないまま、毎回、要るものだけを正確に寄越してくる。
午後は、下りきるのに日が暮れかかった。こちらの足のせいだ。
下りたところに宿場があった。家が三軒と、車を入れる小屋が一つ。小屋のほうが家より大きい。
火のそばで、脚の布を巻き直した。白かったところに色が付いている。色は薄い。薄いが、昨日より広い。
この子は、干し飯を出して、食べる前に半分に割った。割ってから片方をこちらへ寄越した。こういうことを、この子は説明しないでやる。
暗くなってから、外が騒がしくなった。
入ってきたのは、荷を二台引いた一行だった。上から下りてきたのではない。北へ向かって、途中で戻ってきている。
「今日は下りない。明日、人を足してから下りる」
そう言ったのは、先頭の男だった。言い方に腹が立っている調子がある。
「先の坂、車が止まらねえんだ。噛ませても効かねえ。今朝はやれたのに、夕方になったら効かねえ」
誰かが、道が緩んだせいだろうと言った。別の誰かが、荷が重いんだろうと言った。先頭の男は、どちらにも頷いて、それから小屋のほうへ行った。
噛ませた石で坂の途中の車が止まるのも、どこかで、あの手に支えられていたのだろう。その手を、今日、こちらが坂で使って無くした。
「ねえ、あの荷、明日は下りられるのかな」
「人を足すって言ってたろ。足りれば下りられるよ」
「足りなかったら」
「明後日にする。明後日も足りなかったら、その次だ」
「それ、いつまでも足りないってことにならない」
こういうところを、この子は拾う。拾ったうえで、答えを待たずに椀へ戻った。待たないのは、こちらが答えないと見当をつけたときだ。
見当は当たっている。
この子は、干し飯の残りを食べ終わって、寝る支度を始めた。
明日、北へ行く者は、人を足して下りる。足りなければ、もう一人足す。足す人間がいるうちは、それで下りられる。




