第51話「言うんじゃないよ、それは」
頼む言い方を、夜のあいだに考えていた。
考える必要があるとは、これまで思ったことが無い。頼むより先に、いつも片がついてきた。片をつけていたのが何かは、こちらがいちばんよく知っている。
この子が言おうとしている三つには、払い方が入っていない。十二の子が言えば、そこは相手が勝手に埋める。こちらが言えば、埋めてもらえない。
空が白んだのは、それを二度組み直したころだった。
霜が降りていた。土の上は白くないが、灌木の葉の縁に付いている。付いたところから先に垂れて、落ちる。落ちる先は、ちょうどこちらの肩の上だ。
脚のほうは、夜のうちに感じが変わった。痛いのがどこか遠くへ行って、代わりに重いのだけが残った。重いのは、石が重いからではない。
上で、この子が動いた。
「来たよ。下りてくるの、三つ。いちばん前のが、もう坂の上にいる」
「三つとも声をかけな。止まらないのがいても、そこでやめるんじゃないよ。いちばん人が多いのが当たりだ」
「多いとこがいいの」
「多いと、一人ぶん手が余ってる。余ってる手のところへ行くんだ。足りてないところへ行くと、断られる」
この子は、返事をしないで走った。走る足音が縁の上を遠ざかり、少し先で切れた。切れたところから声が始まった。
何を言っているかまでは届かない。届かないが、長さで分かる。長くない。三つ言って、それで止めている。
車輪の音は、止まらなかった。
止まらずに、そのまま縁の上を通り過ぎていった。板の鳴り方が軽い。空に近い車で、朝いちばんに下りきりたい連中だ。
こういうことは、ある。
二つ目も通った。二つ目は、声をかけられて一度速さを落として、それからまた戻した。落とした時間の長さが、断る側の作法としては足りている。
下から見ていると、縁の上の空が、そのたびに一度暗くなって、また明るくなる。
三つ目で、足音が戻ってきた。戻ってきた足音は、四つか五つに増えていた。
縁から顔が並んだ。日に焼けた男が二人と、若いのが一人、それに年嵩の女が一人。女が最初に口をきいた。
「動くかい、腕は」
「動くよ。腰から上は挟まってない。挟まってるのは左の脛だけだ」
「じゃあ大丈夫だ。あんた、運がいいね。夜のうちに来てたら、こっちも下りなかった」
女はそう言って、後ろへ指図を始めた。縄と、棒と、噛ませる石。言う順が決まっていて、言い終わる前にもう一人が車のほうへ戻っていた。この段取りは、前にもやったことのある段取りだ。
降ろしてきた縄を、石の腹へ二重に回した。回してから、結び目を上の木の根へ持っていく。引く力を石にかけるのではなく、木のほうで受ける掛け方だった。
棒は、車の心棒の替えだった。替えを持って歩いているのは、この道では当たり前らしい。
噛ませる石を探して、若いのが下りてきた。下りてきて、こちらの脚のあたりを覗いて、それから顔をしかめた。
「これ、上げるの無理じゃないですか。おれ、こんな丸いの初めてです」
「上げないよ。転がすんだ。下に噛ませりゃ、あとは傾くだけさ」
女は、上からそう言った。
こちらの言おうとしたことと同じだった。同じだったが、こちらは昨日それを思いついて、そこから先へ進めなかった。進めなかったのは、噛ませるものが手元に無かったからだ。
手元に無いものを、この人たちは車に積んで歩いている。
「おばさん」
この子が、縁から身を乗り出した。乗り出し方が昨日と違う。腹ばいではなく、膝で乗っている。
「おれ、思い出したんだ。前に言ったやつの、二つ目のほう。あれ、石をさ」
この子の口が、次の形に動きかけた。
「トト」
「え」
「言うんじゃないよ、それは」
この子は、口を開けたまま止まった。止まってから、ゆっくり閉じた。閉じるあいだに、何かを確かめる顔をした。
理屈は足さなかった。足すと、この子は次から先に考える。先に考えるようになると、この子の頭は在庫でなくなる。
名前は、聞けば使える。聞かなければ使えない。この三年、この子の口から出てくるものを、こちらは一度も止めたことが無かった。
止められると、初めて知った。
「いくよ。せーの」
女の声で、上の三人が縄を引いた。若いのは下で棒を押している。棒の先は、噛ませた石に乗っている。
石は、持ち上がらない。持ち上がらないどころか、棒の先が噛ませた石の上を滑った。
滑ると、乗っているものが下りる。下りたぶんは、こちらの脛へ来た。
声は出さなかった。出すと、若いのが手を止める。手を止めると、いま掛かっているぶんが全部こちらに乗る。
「もう一回。さっきより外を噛ませな」
女の指図で、噛ませ石の位置が変わった。変えてから、上の三人が引いた。
今度は、上がらないまま横へ傾いた。傾いた向きが、こちらの脚から離れるほうだった。土が逃げた隙間に棒の先がもう一度入って、石の下に指が入るくらいの空きができた。
空きができると、脚は自分で出てきた。出てきたというより、抜けた。
「出た。もういいよ」
女が手を止めさせた。止めさせてから、縄をほどきに行った。ほどくのが早い。この人たちは、締めるのと同じ速さでほどく。
左の脛は、色が変わっていた。脛の内側が黒くて、外側が白い。触ると、白いほうだけが冷たい。足首は回るが、体重は乗らなかった。
履物は、若いのが土の中から掘り出してきた。片方だけ、土で重くなっている。
上まで上げてもらうのに、また縄を使った。脇へ回して、二人がかりで引いた。引かれながら壁を蹴るのだが、蹴れるのは右だけだ。
縁の上に出ると、風が来た。風が来ると、濡れているのが分かる。夜のあいだずっと、肩に水が落ちていた。
女が、車のほうから干し飯を持ってきた。
「食いな。冷えた体は、中から戻すもんだ。火に当たるのは、そのあとでいい」
「銭は」
「いらないよ。この道は、明日は自分が下敷きになる道だ。取っといて、あとで取られるのは嫌だからね」
その理屈なら、受け取れる。
この子は、女の後ろで、干し飯の包みをもう一つ抱えていた。抱えたまま、さっきから何も言わない。言いたいことがあるときに黙るのは、この子には珍しい。
「この先は、どうなってるんだい」
「登りが終わったら、長いのが一つある。下りのほうさ。あれを日の暮れに入るんじゃないよ」
「暮れると、どう悪いんだい」
「悪かないよ。ただ、止まらなくなったときに、前が見えないってだけだ」
女は、そう言って車の綱を肩へ回した。悪かない、と言うときの声の置き方が、悪いと言うときのそれと寸分違わない。
一行が車を出すのを、道の端で見送った。出るときに車輪が一度滑って、若いのが慌てて石を噛ませた。
「ねえ」
「なんだい」
「さっきのさ。おれ、言わなくてよかったんだよね」
「よかったよ」
「じゃあ、次も聞かないでいいんだね」
「それは、そのときだ」
この子は、包みを抱え直した。納得はしていない。していないのに引き下がるときは、抱えているものを一度きつく締める癖がある。
遠ざかる背中へ、こちらから声を出した。
「助かったよ。ありがとう」
言ってから、少し変な感じがした。五年前に、見知らぬ家で一人を助けて、翌朝に礼を言われたことがある。あのとき、こちらは何と返したかを覚えていない。
こちらから言うほうは、覚えておけそうだった。




