第50話「その石は、二人じゃ動かないよ」
その朝は、後ろから来た一行に抜かれた。
抜くときに声をかけていったのは、先頭で綱を持っている男だけだった。あとの連中は、こちらを見もしない。見る余裕が無いのは、登りに入っているからだ。
抜いていく荷は重い。重い荷ほど朝のうちに登りを片づける。道が固い時刻に上げておけば、緩んでからの下りが楽になる。
その一行は、切り通しの手前で見えなくなった。
切り通しは、山を横に切って道を通した場所だ。両側が壁になっていて、左の壁は家の二階ぶんはある。右の縁の外も、同じくらいの壁が下へ落ちている。壁の上のほうから、水が滲んでいた。
滲みは細い筋で、壁をつたって下まで来ている。来たところの土が、色が違った。まわりより黒くて、柔らかい。
左の縁は、たしかに落ちていた。落ちたあとが、そのまま残っている。縁の形が、皿を欠いたときのように内側へ食い込んでいて、欠けた線の下に土が溜まっている。
「右だよ。あの人が言ってたやつ、これでしょ」
「これだね。壁から離れて歩きな」
「あの水、どっから出てんの。上って畑なの。畑なら、いつも濡れてるってこと」
「畑かどうかは知らないよ。ただ、上に水の道ができたんだろうね」
「できると、どうなるの」
「土が毎年、少しずつ減る」
この子は、壁の上のほうを見上げた。見上げてから、言われたとおり右の縁を、壁から離れて歩いた。こちらは後ろから同じ幅を取って歩いた。
歩いているあいだ、上からは何も落ちてこない。
落ちてきたのは、切り通しを抜ける手前だった。
音のほうが先に来た。短い音で、雨が屋根を一度叩くのに似ていた。似ていたが、雨の音は続く。この音は続かなかった。
続かない音のほうが危ない。
こちらは、この子の背中を前へ突いた。突いてから、自分の足を右へ出そうとした。出したところに縁が無かった。
落ちた。
落ちたといっても、二階ぶんではない。壁の途中の棚のような場所までで、腰から下が土に入った。
土は、いっしょに落ちてきたぶんだ。柔らかい。柔らかいので沈む。沈んだ先に、固いものが二つあった。
左の脛が、その二つの間に入った。
入っただけなら抜ける。抜けなかったのは、あとから石が乗ったからだ。
乗った石は、腰くらいの高さがある。落ちてきて、棚の縁で一度止まって、それから傾いて、こちらの脚の上の土を押した。土が逃げて、石が下りた。下りきってはいない。下りきっていたら脛は折れている。
折れてはいない。折れてはいないのに、脚はどうやっても出てこない。
「おばさん」
上から声が降ってきた。縁から覗いているのが見える。覗き方が正しくて、腹ばいになって首だけ出していた。
「落ちてない。ここにいる。あんたは下りてこないでいい」
「下りないよ。おれ、下りたら二人になるだけだから」
この子は、そういうことが分かる。分かるので、こちらは声の出し方だけを考えればよかった。
まず、動くところから確かめた。両手は動く。肩も回る。腰から上は、どこも挟まっていない。
履物は、左が脱げていた。脱げたのが先か、挟まったのが先かは分からない。土の中のどこかにある。
石に手をかけた。右手は指が二本動かないので、残りで縁を探る。探った縁は丸い。丸い石は持つところが無い。
左手も添えて、押した。動かない。
押す向きを変えた。上へではなく、横へ。土のほうが柔らかいのだから、石を転がせば逃げ場ができる。転がすには、下に何か噛ませて起こす必要がある。
起こす手が、頭に浮かんだ。
〈梁上げの手〉。
浮かんだのと、無いと分かったのが、同じ速さだった。あの手は、あの町の川べりで、崩れた樽の下から人を出すのに使った。半年も経っていない。使ったから、いまはどこを探しても出てこない。そのことを承知している人間は、ほかに一人もいない。
覚えていることに、得は一つも無い。得があるなら、こんなところで浮かんだりしない。
「その石は、二人じゃ動かないよ」
上から、この子が言った。
「トト。あの一行は、どのくらい先だい」
「分かんない。抜けてったの、朝いちばんだもん」
「じゃあ後ろだ。後ろから誰か来るまで待つ。あんたは上で待ちな」
「おれ、走って追いかけたほうが早くない」
「早くない。登りだ。あんたが追いつく前に日が暮れる」
この子は、それで納得しなかった。納得しない顔をしたまま、しばらく縁から動かなかった。
動かないでいるあいだに、水が落ちてきた。壁の滲みだ。細いが、落ちる場所が決まっている。決まっているところに、こちらの肩がある。
肩をずらした。ずらすと脛に来る。来るので戻した。
午後は、それの繰り返しで過ぎた。
後ろからは、誰も来なかった。この時刻に切り通しへ入る者は、そもそも段取りが悪い。
日が傾くと、壁の影が先に来る。影が来ると、土が冷える。冷えた土は締まる。締まるぶんだけ、脚に来る。
「おばさん、水いる」
「いる。少しでいい」
この子は、革袋を紐で結んで下ろしてきた。紐の長さが足りていて、ちょうど手の届くところで止まった。長さを目で測ってから結んだのだろう。
飲んで、返した。返すときに、上へ向かって言った。
「日が落ちる前に、上の平らへ戻りな。あそこなら風が来ない」
「おばさん置いて?」
「置いていくんじゃない。あんたが凍えたら、明日の朝に頼める人間がいなくなる」
この子は、何も言い返さなかった。言い返さないまま縁から一度消えて、それからまた戻ってきた。上で何かしている音がする。石を動かして、風よけを作っているらしい。
作り終えて、また覗いた。
「おれ、ここで寝る。縁から離れて寝るから」
それ以上は言わせなかった。言わせても、この子は引かない。
「おばさん、起きてる」
「起きてるよ」
「おれ、明日いちばんで下りていく人に頼むから。朝いちばんなら、上で泊まった人が下りてくるでしょ」
「頼み方は考えてあるのかい」
「考えてる。三つ言うんだ。人が挟まってる、石が動かない、梃子が要る。長いこと言うと、みんな聞かないから」
それで足りる。足りることを、この子は道の上で覚えた。
暗くなってからは、音が減った。減った音のうちで、水の落ちる音だけが残る。落ちる場所が肩で、当たると冷たいのが、しばらくすると分からなくなった。
分からなくなるのは、よくない。
こちらは、石の縁を何度も探った。丸い。指の二本は使えない。使える指で探っても、丸いものは丸い。
脚のほうは、痛いというより遠い。遠いものは、自分のものだという感じがしない。
夜のあいだ、名前は一つも出てこなかった。
頭の中の名前の棚を、開ける気が無かったのではない。開けるつもりで、何度も手を伸ばした。伸ばした先に、何も掛かってこなかった。




