第49話「その紐、どこで手に入れたんだい」
この子が、先を歩いている。
道幅が二人ぶん無い場所へ入り、それから先はこの形のまま続いている。並んで歩けないなら前を任せたほうが早い。この子は足が速いくせに、こちらの足音が遠くなると勝手に速さを落とす。落としていることに、当人は気づかない。
前を歩く背中は、ここひと月で少し高くなった。荷の括り目の位置が、去年と違うところに来ている。子供の背は、洗った布を干しておくと丈が変わっているのと同じような伸び方をする。見ているあいだは分からない。
左は山で、右は落ちだ。落ちのほうには灌木が生えていて、下までは目が届かない。届かないほうが歩きやすいので、生やしたまま誰も刈らない。
昼前に、湧きのところへ出た。山側から水が出ていて、そこだけ人が溜まる。桶が一つ鎖で繋いであって、順番に使う決まりでもないのに、誰も取り合わない。
休んでいるのは五、六人。荷を引く連中と、歩きの行商が一人。行商は女で、背負い袋を下ろして、袋の口を開けて中を見ていた。
荷の連中は、車を道の山側へ寄せて、車輪の下に石を噛ませてある。噛ませ方は雑で、置いてあるというほうが近い。ここは平らなので、それで足りるのだろう。
湧きは、岩の割れ目から樋を差して受けてある。樋は木で、継ぎ目に苔が付いていた。水は細いが切れない。切れないので、皆が桶の前で待たずに済んでいる。
こちらは水を飲んで、足の裏を伸ばしていた。
「あんたら、上まで行くのかい」
石を噛ませていた男が、こちらを見ずに言った。
「行くよ。まだ先だけどね」
「切り通しは、右の縁を歩きな。左は去年から落ちてる。直す話はあるが、直す者がいない」
「直す者が要るほど落ちてるのかい」
「落ちてるよ。上から水が出るようになってね。出るようになったら、土は毎年減る一方だ」
男は、それだけ言って車のほうへ戻った。教える気があったというより、言っておかないと後味が悪い類の話だったのだろう。
足の裏を伸ばしていると、前のほうでこの子が止まった。
止まり方で分かる。この子は、探しものが目に入ると、まず足が止まって、それから目が動かなくなる。頭の中にあるものを、端から順に当たりに行く顔をする。
こちらは、その目の先を追った。
行商の袋の口が、紐で二重に縛ってある。色が二つ。黄色と、白。
二本撚りだった。
「おばさん」
「見えてるよ」
この子は、それより先を口にしなかった。黙っていられるようになったのは、ここ一年のことだ。
こちらは、桶を戻してから行商のほうへ寄った。寄り方は間違えないようにした。物を見に来た客の寄り方をする。相手の持ち物を見に来た人間の寄り方をすると、行商は袋の口を締める。
「何が入ってるんだい」
「針、糸、留め金。櫛もあるよ。櫛は高いけどね」
「糸を見せてもらおうかね」
女は袋の口の紐をほどいた。ほどくときに、結び目を指で三度、押すようにしてから引いた。慣れた手だ。慣れた手が出るのは、その紐を毎日ほどいている証拠になる。
糸は、木の枠に巻いたものが何色か出てきた。こちらが要るのは黒だ。履物の緒を縫うのに要る。
枠は指の長さくらいで、巻きの厚みで値が違う。厚いほうを持ち上げると、女はすぐに薄いほうを勧めてきた。厚いのは、この先の町でなければ捌けない品なのだという。
値を聞いて、一巻き買った。買ってから、紐のほうへ目を落とした。
「その紐、どこで手に入れたんだい」
「これ?」
女は、袋の口を指で摘まんで、自分でも初めて見るような顔をした。
「もらったんだよ。どこだったかね。継ぎ場のどっかで、荷から解いたのが余ってたんで、あんた要るかいって」
「誰に」
「そこにいた人。荷の人じゃなくて、継ぎ場の人だね。たぶん」
たぶん、のところで女は笑った。思い出せないことを笑ったのであって、ごまかす笑い方ではない。
こちらは、それ以上は追わなかった。追うと、次の継ぎ場でこの女が「変なことを聞かれた」と話す。話されると、こちらは道の上で目立つ。目立つと、歩きにくい。
「丈夫そうだね」
「丈夫だよ。これは切れない。麻の一本撚りだと、袋の口はひと冬もたないからね」
女は、そう言って紐を引いてみせた。引かれた紐は、伸びる気配が無い。黄色と白が互いに食い込んでいて、撚りの筋が指に当たる。
指の腹で、そこを一度なぞらせてもらった。動かない二本は使わずに、残りで挟む。挟んだだけで、固さが分かる。
撚りは、右へ回っている。二本のうち、白のほうが少し細い。細いほうを芯にして、太いほうを外へ回している撚り方で、こうすると外側から先に痩せる。痩せても、芯が残っているうちは切れない。
この撚り方をする者は、麻をよく知っている。よく知っている者が、袋の口に使う程度のものを、こんな手間で作る道理は本来なら無い。
そういう作りをしたものが、行商の袋の口で、毎日ほどかれて、毎日結ばれている。
「おばさん、おれ、聞いていい」
この子は、こちらの後ろから出てきて、三つ続けて言った。
「これ、何の色なの。おれ、赤は布で、黒は鉄って教わったんだ。黄色と白は誰のなの」
女は、少し考えてから首を振った。
「知らないよ。色で分けてるのは川べりの人たちだろ。こっちは、そういうのは無いね」
「じゃあ、これは何」
「紐だよ」
それきり、この子は口を閉じた。答えとして正しいものに、返す言葉は出てこない。
女は袋の口を締め直して、背負って、先に立った。締めるときも、指で三度押してから引いた。
こちらは、その背中を見送った。あの紐は、もうあの人の紐だ。切れない紐が手元にあれば、それは紐で、それ以上のものである必要が無い。
午後の道は緩んでいて、轍が深くなりはじめていた。この子は、また先に立って歩いた。
しばらく、結び方の話をしていた。三度押してから引く結びは、締まりが均すので、ほどくときに爪が要らないのだそうだ。見ただけでそこまで拾ってくる。分かったぶんを、次の宿で自分の荷にすぐ試す。
歩きながら、一度だけ振り返った。
「ねえ、あの人さ、噓ついてないよね」
「ついてないね」
「じゃあ、ほんとに知らないんだ」
知らない、と本人が言っているものを、こちらはこれから何度も見ることになる。あの女は、袋の口を毎日ほどきながら、この先も一度も、それがどこから来たかを考えないだろう。




