第48話「塩だけは、買っといたほうがいい」
塩気の一皿が付かなかった。
この街道の宿は、どこでも麦の粥に塩気のものを一皿付ける。
この宿では、それが付かなかった。頼めば出るが、そのぶんの銭を取る。取る側は悪びれないし、こちらも言わない。額としては、たかが知れている。
「おばさん、これ、なんで無いの。頼めば来るの。来るなら最初から出せばいいのに」
「三つ聞いたね。来るよ。来るけど、その一皿ぶん高くなる」
この子は、しばらく考えてから粥のほうへ戻った。いま考えても仕方がないと決めたときの戻り方だ。
朝、出るときに聞いたら、女将は塩の値を口で言った。町を出た日に払った値の、たしか倍近い。言い方に含みは無い。値そのものを、目方や日付と同じ並びのものとして口にしている。
「この先、まだ上がるよ。塩だけは、買っといたほうがいい」
「持って歩くと重いんだけどね」
「重いのが嫌なら、食わなきゃいい」
「向こうは、何かあったのかい」
「知らないよ。上がるもんは上がる。下がるときも、あたしに断りはないさ」
それで話は終わった。こういう答え方をする人は、値を吊っているのではない。吊っている人は、もっと説明する。
町を出たのは、夏の入りだった。北へ折れるこの街道に入るまでに、夏も秋も、ほとんど道の上で使ってしまった。そのあいだ、すれ違う車の紐は一台ずつ見てきたが、黄色と白の二本撚りには、まだ一度も当たっていない。
道は、朝のうちは固い。踏んでも指の跡が付かないくらいに締まっていて、荷を引く者にはこの時刻がいちばん楽だ。
昼を回ると緩む。緩んだところを轍が二本、深くなっていく。深くなった轍は、翌朝にはまた固まって、そのまま形を残す。前の日にどれだけの荷が通ったかは、朝の轍を見れば分かる。
こちらは、それを毎朝見ながら歩いている。見ても得は無い。得は無いが、見ないでいるほうが難しい。
すれ違うのは、下ってくる荷車ばかりだった。どれも空か、それに近い。空の車は音が軽くて、近づいてくるのが遠くから分かる。板の鳴り方が、水を汲んだ桶と、汲む前の桶くらい違う。
「行くのばっかり、追い越してくね。帰るのは空。なんで」
「向こうで降ろして、帰りは拾わないんだろうね」
「損じゃないの、それ」
「損でも、行きで出るなら行くよ」
それを聞くなり、この子は指を折りはじめた。折りながら小さい声で言っている。往きで幾ら、帰りが空で幾ら、宿がどう、と並べている。数えるのはこの子の仕事で、こちらの仕事ではない。
しばらく折って、それから折るのをやめた。
「合わないよ。おばさん、これ合わない」
「合わないなら、こっちの知らない儲けがどこかにあるんだよ」
この子は、そこで黙った。黙ったが、納得したときの黙り方ではなかった。
昼過ぎに、次の継ぎ場へ入った。人が休む場所と、荷を積み替える場所が並んでいて、休む側は屋根が半分しかない。
積み替えは、こちらの休んでいる横でやっている。下ろして、担いで、別の車へ載せて、掛け直す。載せるほうは四人がかりで、掛けるほうは一人だ。掛ける役の男は、車のまわりを一周してから縄に手をやる。
その一周が速い。速いのは、どこを締めれば動かなくなるかを、見る前に知っているからだ。こういう手つきは、覚えるのに何年かかかる。
「あの人、上手いね。おばさん、あれ、習うとできるようになるの」
「なるよ。十年はかかるけどね」
「十年かあ」
首を回すのは、長い話だと見当をつけたときのこの子の癖だ。
塩はここでも上がっていた。上がり方が、前の宿から思っていたより急だ。
この子の履物は、右の緒がもう薄くなっている。町を出るときに一度縛り直したが、道が固い日が続くと、結び目のところから先に痩せる。替えは売っていた。売っていたが、値を聞いてやめた。
「まだ持つよ。おれ、結び方変えるから」
「変えると持つのかい」
「持つ。結び目を、足の当たらないとこに回すんだ」
それで実際に持たせるのだから、この子は道具の使い方が上手い。上手いというより、痛まない場所を知っている。
こちらの右手は、指が二本、曲がらないままだ。荷を括るときに、その二本は使わない。使わない括り方を一年あまりかけて覚えたので、いまは括るのが遅いだけで済んでいる。遅いのは、朝の支度を早く始めれば消える。
夕方、また登りに入った。登りが続くと、荷の重さは肩ではなく腿に来る。
その先の曲がりで、縁の下に車が一台、落ちていた。
落ちてから、それなりに日が経っている。折れた枝の口がまだ乾ききっていないので、去年の話ではない。縁から下は木が生えていて、車はその途中で腹を引っかけて止まっていた。荷は下ろされたあとらしく、台の上には何も載っていない。
「取らないのかな、あれ」
「取れないんだろうね」
「でも、あそこまでなら下りられるよ。おれ、下りられる」
「下りるのと、上げるのは別だよ」
この子は、しばらく縁から覗いていた。覗きながら、たぶん自分の腕と車の大きさを見比べている。
この道は、どこまで行っても同じ作りをしている。左に山、右に落ち、真ん中に轍が二本。町のように分かれていないので、迷いようが無い。
迷いようが無い代わりに、選びようも無い。
日の落ちる前に、その日の宿へ入った。ここでも塩気は付かず、頼まなかった。この子も頼まなかった。
飯のあとで、落ちていた車の話が出た。出したのはこちらではなく、この子のほうだ。
「下の車、誰のなんですか。誰か取りに来ないんですか」
「来たよ。三度来た」
宿の男は、そう答えてから炭を足した。足し終えてから、続きを言った。
「三度来て、三度とも上がらなかった。人を増やしても、あれは無理だ。木が邪魔でね、綱の掛けようが無い」
「じゃあ、ずっとあのまま」
「あのままだね。半年前なら、ああはならなかったんだが」
半年前が何なのかは、この男の口から出てこなかった。隠したのではない。そこから先が、この人の中に無いだけだ。重い物を起こす手は、半年前に、あの町の川べりでこちらが使って無くした。
こちらは、炭の値を払って、それ以上は聞かなかった。
「明日は登りが長いって。さっき下りてきた人が言ってた」
「聞いといてくれたのかい」
「聞いたんじゃない。向こうが勝手に言ったんだ。おばさん、あの人たち、なんでみんな教えてくれるんだろ」
「下りてきた人間は、機嫌がいいんだよ」
この子は笑い、笑ったついでのような手つきで荷の口を締めた。締め方は、あの町を出た日から変わっていない。
寝る前に、板の隙間から外を見た。向かいに灯りは無い。ここは家が二軒しかないので、灯りを点ける家のほうが少ない。
値は、この先も上がる。上がると聞いたし、上がるところを二度見た。荷が先へ流れていて、流れた先で捌けているということだけは、値のほうから分かる。そこまで読めても、こちらの手には何も渡ってこない。
この子は、明日の登りの話をしながら寝入った。
この四日、引き返す話は一度も出ていない。こちらが出さなかったのではなくて、この子も出さなかった。高くなるほうへ歩いているのに、二人とも、それを困ったこととして口に出していない。




