第47話「あの紐、ここじゃ見ないやつだった」
その朝、戸は半分開いていた。
半分というのがこの店の決まりで、十日ぶりに、決まりどおりの幅になっていた。開いているだけで通りの見え方が変わる。閉まっていたあいだ、あの前を通る人はみんな少しだけ早足だった。
こちらは、それを枡の前から見た。油屋は朝が早いので、開く時刻には、もう二人ぶんの客をさばいている。
列は、暗いうちから出来ていた。出来方も前と同じで、座る者が先に座り、あとから来た者が後ろへ付く。番号をふる者はいないので、来た順のまま並んでいる。前より長いのは、十日ぶんが溜まっているからだ。
十日というのは、待つ側には長い。待たれる側には、たぶんそれほどでもない。閉まっていたあいだに死んだ者がいるかどうか、こちらには分からない。調べる手立てはあるが、調べに行く用が無い。
油屋からは、通りの端が見える。枡を持ちながら首を回すと、並びの尻尾が二軒ぶんこちらへ伸びているのが分かった。
「開いたね、あっち」
「開いたよ。うちの客が減る。減るけど、そのぶんは先に取ってあるんでね」
主人は、そう言って値を戻した。上げるときは客ごとに口で言い、下げるときは何も言わない。下げたことに気づいた客が、そのぶん多く買っていく。この人は、そこまで込みで値を動かしている。
昼前に、一度だけ、あの店の戸口が見えた。客が出入りするたびに、中の台の向こうが覗ける。袖をたくし上げた腕が、前と同じ角度で動いていた。右の手には布が巻いてある。巻いたまま組めるのかどうかは、こちらの見ているところからでは分からない。
組めているのだろうと思う。列が動いているからだ。
ただ、動き方は前より遅い。前は、入って出るまでがひと息だった。今日は、その倍はかかっている。倍かかるということは、一日に入れる数が半分になるということで、半分になったぶんは、明日へ回る。
あの人の声が、一度だけ、通りまで届いた。次の客を呼ぶ声だった。値を言う声で、言い方は十日前とまるきり同じだ。声のほうは、休んでも変わらない。
こちらを見たかどうかは、分からない。見たとしても、あの人はもう何も言わない。頼んだことも、断られたことも、この人の商売のうちでは済んだ話になっている。済んだ話を蒸し返す人は、明日の客を減らす。
午後は、客の入りが半分になった。あちらへ回った人は、こちらへは来ない。減り方が急なので、値を戻した意味はあまり無かったことになる。それでも戻したのは、明日からの客のためだ。
夕方、主人が銅貨を並べた。並べ方はいつも同じで、右から左へ一枚ずつ寄せる。寄せ終えてから、指を台の上で二度叩いた。持っていけ、という合図だ。
「今日までだ。明日から来ても、置く場所が無いんでね。悪いね」
「聞いてたよ。先に言われてたから、悪くない。よそはそれを言わないからね」
並んだのは、いつもと同じ数だった。こぼした一合ぶんは、初日にもう引かれている。数え直しはしなかった。この人が数を間違えるとしたら、それは間違いではなく、そういう値だったということだ。
「あんた、どこへ行く」
「まだ決めてない」
「決めてないなら、北はやめときな。あっちは坂が多い」
それを聞いて、ひとつだけ考えた。
北。
その言葉が出てきたのは、この人に何か当てがあるからではない。行き先の決まっていない相手に、いちばん歩きにくい方角を先に切る。それだけの話だ。
それだけの話だが、こちらの頭の中には、もう一つ北がある。長夜の灯しで食っていたザンドの一族は、雪の来るのが早い北の者だった。あの晩に見た細い線が、どこから来たものなのか。考えたところで答えは出ないが、出ないまま置いておける場所が、頭の中にはもう無くなっていた。
店を出るとき、裏の樽をもう一度見た。八つのうち、手前の三つが空で、奥はまだ触っていない。あの積み方を覚えているのは、いまのところ二人だけだ。明日からは一人に戻る。
宿へ戻ると、この子は先に帰っていた。川べりの仕事は今日も遅れていて、遅れているぶん、終わりが早くなったらしい。荷が捌けないと、途中で切り上げるしかない。
「おばさん、店、終わった?」
「終わったよ。あっちが開いたからね」
「じゃあ、明日からどうするの」
「その話をしようと思ってね」
この子は椀を置いた。置く音が、いつもより静かだった。話が長くなると分かったときの置き方をする。
この子は、そこで座り直した。座り直し方で、どのくらいの長さの話か見当をつけるのが、この子の癖だ。
「聞きたいことがある。何日か前の晩だ。この通りに、荷車が入らなかったかい。夜遅くに、一台だけ」
線が消えた晩、板の間で背中から聞いた、あの一台のことだ。
この子は、少し考えた。考えたというより、頭の中の並びを端から見に行った顔だった。探すときは目が動かなくなる。
「入った。一台だけ。音がしたから、おれ、窓から見たんだ」
「どこの荷車だい」
「知らない。川べりの荷車じゃなかった」
「なんで分かるんだい」
「紐だよ。荷を縛ってる紐。川べりは色が決まってるんだ。赤か黒か、でなきゃ縄。どれでもなかった」
この子は、そこまで言って、少しだけ得意そうな顔をした。得意になるのは、自分の頭が役に立ったと分かったときだけだ。役に立ったかどうかを、この子は聞かない。
こちらは、そのまま少し黙った。黙っているあいだに、この子は荷物のほうへ手を伸ばしていた。話の長さの見当が、途中で変わったらしい。
「町を出るんだね」
「出るよ。明日か、明後日だ」
「どっち行くの」
「北」
この子は、頷いた。理由を聞かなかった。
聞かないので、こちらから言った。二年半、一度も声に出したことのない話だった。
「わたしはね、手を使わないで切り抜ける道を探してるんだ。ずっと前からね」
「探してるって、どこで」
「それが分からないから、歩いてるんだ。歩いてれば、誰か知ってる人に当たるかもしれないだろ」
そうか、とこの子は言った。
驚きもしなければ、笑いもしなかった。二年半いっしょに歩いてきて、いまさら行き先の理由を聞かない子になっている。
そうか、で済ませたのは、こちらの言ったことがこの子の中で筋として通ったからだ。通らないものには、この子は必ず三つ聞く。
「荷は少ないから、朝には出られるよ」
「川べりに挨拶は」
「行く。明日の朝いちばんで。世話になった人には言っとかないと、次に来たとき困るから」
次に来たとき、とこの子はときどき言う。次があると思っている者の言い方だ。こちらは、この町へ二度目に来ることは無いだろうと思っている。思っているが、そこは言わない。
持ち物は、この町へ入った日とほとんど変わらない。借りた前掛けも返して、増えたものは何も無い。ひと月近くいて、持ち物が増えも減りもしない暮らしを、こちらはもう二年半している。
窓の外は、もう暗い。向かいの家には、今夜も小さい火が点いている。明日からは、あの店の火を買える家が半分に減って、そのぶんこっちの火が増える。増えたところで、朝までは持たない。
この子は、それから寝る支度をはじめた。上の一枚を畳んで、荷の口を締めて、それから思い出したように振り返った。
「そうだ。あの紐、ここじゃ見ないやつだった。黄色と白の二本撚り」




