第46話「遅くなったのは、樽のせいだ」
その日は、店を出るのが遅くなった。
樽を裏へ積み直す日だったからだ。空いたのを外へ出して、次に抜くぶんを手前へ寄せて、残りを奥へ詰める。抜く順を間違えると、古いほうが奥に残って傷む。傷ませた油は捨てるしかなく、捨てたぶんは誰の得にもならない。
「あんた、明日も来るね」
「来るよ。ほかに行くとこが無いんでね。断られるのは、もう間に合ってる」
「そりゃ助かる。うちは十日は忙しい。十日過ぎたら、たぶん要らなくなるよ」
「ずいぶん先まで言うね」
「言うよ。言わないで来させて、いきなり要らないと言うほうが性が悪い。そういう店は、次に忙しくなったとき誰も来ない」
「よく回る頭だ。栓の順番まで覚えてるわけだ」
「順番は、忘れると銭が減るからね。人の顔は、けっこう忘れる」
この人は、そういうところは正直だった。正直というのは親切とは別のもので、たいていは、あとで揉めるのが厭なだけだ。それでも、言われる側からすると、先に分かっているほうがずっといい。
樽は八つある。積み直すと、腕より腰が残る。膝はもう昨日から言うことを聞いていないので、そこは数のうちに入れない。
積み直しのあいだ、主人は帳面をつけなかった。この人は数を紙に書かない。書かないぶん、樽の位置と抜いた順が、そのまま帳面の代わりになっている。だから位置を勝手に動かすと、この人の一日ぶんが消える。
外へ出たとき、通りはもう暗かった。
夜の通りは、昼とは幅が違って見える。店の板戸が全部閉まると、道の両側が一枚ずつ内側へ寄って、そのぶん真ん中が細くなる。歩く場所は同じなのに、細いところを通っている気になる。
灯りの点いている家は、この通りに三軒。昨日より一軒増えている。増えたのは、普請が止まった家の隣で、夜なべに切り替えた口があるからだと思う。仕事のほうは、止まった場所から順に隣へ流れる。
油の火は、どの窓でも同じように揺れていた。揺れるのは、風が入るからだけではない。芯を短くすると、火は自分の重みで揺れる。倹約した家の火は、見ただけで分かる。
宿へ戻るには、あの通りを抜けるのが近い。近いので抜けた。遠回りをする用は無かったし、する気もなかった。
あの店の前まで来て、足が止まった。戸は、閉まっていた。昼と同じで、半分も開いていない。列はとうに散っていて、座っていた跡だけが土の上に残っている。跡というのは、人が毎日同じ場所に座ると、そこだけ土が締まって色が変わるものだ。
閉まった戸の前に立つのは、これで何度目になるのか。数えるほどのことでもないが、立つたびに、板の色の抜けたところが少しずつ目の高さに近づいてくる気がする。近づいているのは、こちらの背ではなく、こちらの目のほうだ。
戸の下に、隙間がある。どこの戸にもある隙間で、幅は指の厚みほどしかない。昼は何も見えない。夜は、中に灯りがあれば、そこだけ細い線になって外へ出る。
線が、出ていた。
こちらは、それをしばらく見ていた。正しく言えば、見てしまってから、動くところまでが遠かった。
油の火なら、線は揺れる。細く出ているぶん、揺れは外のほうがよく分かる。窓から漏れる火が生き物みたいに見えるのは、そのせいだ。
その線は、揺れなかった。
太さも、長さも、はじめから終わりまで同じだった。細い線が、地面に一本、真っすぐ置いてある。置いてあるという言い方がいちばん近い。
中で、あの人の手は動かない。今日も動かないし、明日も動かない。あと何日かは動かないと、本人がそう言っていた。
それでも、あの火が点いている。誰が点けたのかは、外からでは知りようがない。ただ、点けられる者がこの町に何人いるかなら、こちらのほうがよく知っている。
この線を、ほかの誰が見ても、何のことか分からない。通りがかりの人が見れば、灯りの店に灯りが点いていると思うだけだ。閉まっているのに点いているのは変だと思う人もいるだろうが、変だと思ったところで、明日の朝には忘れている。この町では、そういうものが毎日いくつも通り過ぎていく。
通りの端から端まで、人はいなかった。夜のこの時刻は、灯りのある家は中にいて、無い家はもう寝ている。出歩く用のある者だけが動いていて、こちらには、その用が無い。
足の裏に、土の冷たさが上がってきた。立ち止まっていた時間は、自分では計れなかった。計れないくらいには長かったらしい。
中から、物音はしなかった。声も、足音も、器を置く音もしない。しないのに火が点いているというのは、点けた者がそこにいないか、いても動かずにいるかのどちらかだ。
どちらであっても、こちらに用のある話ではない。用が無い、というのは、ここでは本当のことだった。近づく理由も、聞く言葉も、こちらの手元には無い。あるのは、あの火の正式な名前だけで、それはどこにも渡せない。
線が、消えた。
消える前に、細くなったり、揺れたりはしなかった。ついさっきまで真っすぐあったものが、ひと息で無くなった。油の火は、そういう消え方をしない。芯が食いきるまでは、細りながら粘る。
消し方のほうが、点け方より、よほど多くを言っている。
あれは、外に人が立っているのに気づいた者の消し方だ。
そこから宿までのあいだ、後ろは一度も見なかった。見られていると思ったからではない。見られていたとして、それはもう済んだことだ。
宿の板の間では、この子がもう寝る支度をしていた。
「遅かったね」
「樽を積み直したんだよ。八つもあると、腰に来る。明日は腕が上がらないかもね」
「おばさん、その仕事いつまで」
「十日だってさ。今日、向こうから言われた。先に言うだけ親切な人だよ」
「十日。ちょうどだね」
「何が」
「あの店が開くのも十日。おんなじだ」
「おばさん、今日、なんかあった?」
「なんにも。樽が重かっただけだよ」
そう言って、この子は上の一枚を畳んだ。畳んでから少し考えて、もう一度口を開いた。
「じゃあ、十日で、この町も終わりかな」
「気が早いね」
「おばさん、あの店って、開いたら並ぶ?」
「並ばないよ。買わないんだから」
「そっか。おれ、いっぺん並んでみたかったな。番号ふるほうばっかりだったし」
返事はしなかった。
この子は、そういう数え方をする。仕事が終わる日と、町を出る日を、同じところに置く。置き方としては、間違っていない。間違っていないので、返しようが無い。
板の間は、宿へ来てからずっと同じ場所で寝ている。頭を壁のほうへ向けると、通りの音が背中から来る。荷車が一台通って、そのあとは何も通らなかった。
その晩は、なかなか寝つけなかった。
立ちっぱなしの日は、いつもならすぐ寝る。寝られなかったのは、膝のせいではない。目を閉じると、土の上に置かれた細い線が、閉じたほうの側にも一本あった。




