第44話「よく持ち上がったな、あれ」
帰りに、川べりを回った。宿へ戻るなら、通りを二本まっすぐ行けばいい。回れば遠くなる。遠くなるぶん、あの子の仕事が終わるのに間に合うので、待って一緒に帰ることになる。
立ちっぱなしの膝には、まっすぐのほうがよかった。よくないほうを選んだのは、油の匂いのする手で先に宿へ帰って、暗いところに一人で座っているのが厭だったからだ。
川べりは、夜も荷を動かす。着いた舟のぶんを、朝までに分けてしまう。朝に持ち越すと、置き場の銭が別に出る。だから夜の荷揚げは、この町ではふつうの仕事だ。
ふつうの仕事には、ふつうの灯りが要る。この前まで、ここの夜は油を使っていなかったらしい。荷主が一晩ぶんの灯りを一つ買って、土間の真ん中に置く。十二枚は高いが、人夫の手間を一人ぶん減らせるなら安い、という勘定だった。
今は、それが無い。代わりに、油の灯りが四つ、荷の四隅に置いてある。四つで一つぶんの明るさにもならないのは、油の火が小さいからだ。小さいうえに、風で揺れる。
揺れる火の下では、影のほうが動く。動く影の中で重い物を運ぶと、置いたつもりの場所と、実際に置いた場所がずれる。
積んだ荷は、重ねた皿と同じで、下のほうから抜くと全部が来る。抜くつもりがなくても、ずれれば同じことだ。ずれたかどうかは、揺れる火の下では見えない。
土間には、着いたぶんの荷が山で三つ置いてあった。行き先ごとに分けて、朝までに通りへ出す。分ける順を間違えると、朝いちばんの荷車が二度走ることになる。
この子は、土間の端で紐の色を見ていた。こちらが着いたのには気づいていて、それでも手は止めない。仕事のあいだは寄ってこないのが、この子のやり方だ。
風が入ったのは、そのすぐあとだった。川から上がってきた風で、四隅のうち二つが消えた。二つ消えると、残りの二つのぶんだけ影が伸びる。伸びた影の中で、樽を担いでいた男が半歩ずれた。
音は、思ったより低かった。崩れる音は、上から順に来るのだとばかり思っていた。実際は下から来る。下の一段が横へ滑って、その上が落ちて、落ちた先がまた滑る。
止まったとき、樽の山の下から、足が二本出ていた。膝から先だけが外にあって、そこから上は見えない。見えない側がどうなっているかは、足の向きで見当がつく。
人が集まるのは早かった。夜の荷揚げは人が多いので、六人も七人もすぐ手が付く。付いたが、上がらない。
「せーの」
声を合わせて、上がらなかった。
「下、噛んでる。横の一つが噛んでるんだよ。そこを外さなきゃ上がらん」
「縄かけろ。縄だ。手じゃ無理だ」
縄は持ってきたが、濡れていた。濡れた縄は締まる。締まったものを解くには乾かすしかなくて、乾くのを待てる話ではない。
「息はあんのか」
「ある。呼んだら返してる。まだ声は出てる」
返事をしているというのは、まだ間があるという意味で、同時に、間はそう長くないという意味でもある。胸の上に載っているものは、載っているだけで人を弱らせる。
男たちは、もう一度やった。上がらなかった。二度目は、一度目より上がらなかった。大勢で持つと力がばらけて、かえって上がらない。
こちらは、そのあいだ、荷の脇に立っていた。立って、樽の数と、噛んでいる場所と、下の男の足の向きを見ていた。見ればだいたい分かる。分かったところで、こちらの腕はこの町でいちばん弱いほうだ。
「トト」
この子は、こちらのすぐ横にいた。いつのまに来たのか分からない。
「重いものを上げる手は、あんたの頭にあるかい」
この子は、すぐには答えなかった。答えなかったのは、探していたからだ。探す時間は、いつもの半分もなかった。
「〈梁上げの手〉。おれ、使えないけど、名前は入ってる。荷を起こすやつだよ」
名前を聞いた。
息を吸って、指を組んで、その名前を言った。
樽の山が、浮いた。
浮いたのは指の幅ほどで、高さとしては何ということもない。ただ、噛んでいたものが外れるには足りた。外れたあとは人の力で動く。男たちが横へ引いて、下の男が引きずり出された。
引きずり出された男は、すぐには起き上がらなかった。仰向けにされて、自分の膝のほうを見て、それから息を吐いた。息を吐けるうちは、たいてい助かる。
足の骨は折れていた。胸は無事だった。骨のほうは、この町では添え木と時間で治す。治すのに要るものは、この町から無くなっていない。
誰かが走って、添え木を置いている店の名を呼んだ。夜に叩いて起こすことになるが、そこは荷主が払う。怪我をした人夫が自分で払うことになるのは、たいてい、荷主の見ていないところで転んだときだけだ。
立ち上がった者から順に、息を整えはじめた。
そこからが、早かった。
「よく持ち上がったな、あれ」
「二度目で、こつが分かったんだよ。一度目は力が散ってた。声が合ってなかったんだ」
「ああ、散ってた。声の合わせ方だな」
「縄が効いたんだろ。濡れてたけどな。あれで角が起きたんだ」
男たちは、そういうふうに話した。
誰も嘘をついていない。嘘をつくには、嘘の前に本当のことを知っていなければならない。この人たちには、知りようが無い。だから、いま自分たちが見たものを、その場でいちばん筋の通る形に置き直している。
置き直すのに、三呼吸もかからなかった。
灯しが消えてからの三年で、この町の記憶が「昔からこうだ」のほうへ動いた跡を、こちらはここへ来てから毎日見てきた。同じことが、目の前で、人が息を整えるあいだに済んだ。
この子は、崩れた山のほうを見ていた。見ているのは形で、人ではない。どう積んであったかを、あとで思い出せる順に入れているのだと思う。
「上がったね、おばさん」
「上がったね」
「おばさん、いま何か言った?」
さっき自分で出した名前は、もうこの子の頭に無い。残っているのは、こちらが何か言った、という耳のほうだけだ。
「言ってないよ。息を吸っただけだ。立ちっぱなしで胸が詰まってんのさ」
この子は、そうかと言って、紐の続きを見に行った。聞いたことを覚えていて、答えを疑わない。疑わないのは、こちらが二年かけてそうさせたからだ。
帰り道は、通りを二本まっすぐ行った。遠回りをする用は、もう無い。膝から下は、来たときの倍くらい重い。
「あの人、歩けるようになる?」
「なるだろ。骨は繋がるもんだよ。時間はかかるけどね」
「添え木の店、この町にあるもんね」
「あるね。よく知ってるじゃないか。通るたびに見てるんだろ」
「通りで見た。おれ、看板の字は読めないけど、置いてあるもんで分かる」
この子は、字の読めない土地の歩き方を知っている。看板ではなく、店の前に何が出ているかを見る。出ているものは嘘をつかないからだ。
「おばさん、なんで今日、川べり来たの」
「足が向いたんだよ」
「ふうん」
足が向いた、というのは、理由を言わずに済ませたいときに、いちばん具合のいい言い方だ。具合がいいぶん、本当のことも半分くらいは入っている。
油の匂いは、まだ手に残っていた。灰でこすったのは店を出るときで、それから何も洗っていない。
明日の朝も、あの樽の前に立つことになっている。




