第43話「よそのもんだから雇うんだよ」
その日は、断られなかった。
朝、この子は先に出る支度をしていた。前掛けを返してきた腰は軽いままで、持つものは椀と手拭きだけだ。
「おばさん、今日は出るの」
「出るよ。三軒くらい回ってみる。それで足りなきゃ、もう三軒だ」
「決まるといいね。おれ、夕方までいないから、決まっても言えないけど。帰ったら教えてよ」
「決まったら、あんたの銭で食うのはやめにするよ。そこは楽しみにしときな。好きなもん買ってやる」
「べつにいいのに。でも、決まったほうがいいと思う。おばさん、昨日ずっと通りに立ってたでしょ」
「見てたのかい」
「見てないよ。けど、ほかに行くとこないもん」
そう言い残して、この子は出ていった。行くところが無いのを知っているのに、知らないふりを一度もしない。そこは、こちらより出来がいい。
朝のうちに三軒まわって、三軒目の油屋で決まった。決まるときはあっけないもので、こちらが言い終わる前に、主人のほうが手を振って奥を指した。指した先に樽が積んであって、その前に立てということらしかった。
「歳は」
「二十六」
「よそのもんだろう」
「ひと月ばかりいるよ」
「ならいい。よそのもんだから雇うんだよ。長くいる気があるなら、うちは要らない」
それだけ聞いて、樽の前へ行った。理由を聞き返さなかったのは、聞かなくても分かる種類の話だったからだ。
この店は、いま値を上げている。上げているところを町の者に毎日見られるのは、あまり具合がよくない。よそから来た者なら、そのうち出ていく。出ていく者が見たものは、町に残らない。
第一、忙しかった。忙しい店は、目の前の手が足りているかどうかでしか物を考えない。
店の中は、朝から油の匂いで一杯だった。床は油を吸って黒くなっていて、そこだけ、掃いても掃いても色が戻らない。樽を置く場所には丸い跡がいくつも付いている。
仕事は、量り売りの脇に立って、樽から枡へ移すことだった。
枡は一合のものが二つと、五勺のものが一つ。樽の栓を抜いて、漏斗を当てて、枡へ受ける。受けたら栓を戻す。すりきり一杯にして、客の器へ空ける。空け終えたら、次の器を待つ。
油を量るのは、汁をよそうのに似ている。器のほうが先に決まっていて、こちらはそこへ合わせるだけだ。多くても少なくても文句が出るが、多いほうの文句は、たいてい主人からしか来ない。
値は、主人が客ごとに口で言う。貼り出しはしない。貼り出せば、上げたときに前の数と並んで見えることになる。口で言うぶんには、言った先から消える。
朝から、客が切れなかった。
どの家も、持ってくる器が大きくなっている。前は小さい油差しで買っていた家が、今日は壺で来る。壺で来て、一合しか買わない家もある。器が大きいのは、買いだめする気があるという意味ではなく、そのうち大きいほうで買う日が来ると思っているという意味だ。
「あんた、新しい人かい」
「今日からだよ」
「いつまでやってんの、ここ」
「日の高いうちは、やってるんじゃないかね」
聞いてきた客は、それだけ聞いて器を差し出した。こちらが誰なのかには、もう用が無い。この町の人は、店にいる人間を店の一部として見る。昨日まで通りに立っていた者が今日ここにいても、そこは繋がらない。
昼前に、一度こぼした。
右の指は、二本が言うことを聞かない。枡を持つのは左でいいが、器を押さえるほうは右になる。押さえが甘いと器が逃げる。逃げた先へ油が落ちて、台の上で広がった。
油は水と違って、床に染みない。上に乗ったまま、踏んだ者の足の裏へ移って、そのまま店じゅうへ運ばれていく。
「それ、引くからね」
「いくら」
「一合ぶん。こぼしたのは一合じゃない。拭いた布のぶんが入ってるんでね」
筋は通っている。通っているので、言い返すところが無い。
主人は怒鳴らなかった。怒鳴る店は忙しいときに手が止まるので、この人はそこを覚えている。覚えている人のところは、たいてい賃が安い。
「あんた、手つきは悪くないね。どこかでやってたのかい。前は何をしてた」
「台所ならね」
「台所で樽の栓は抜かないだろう」
「抜く家もあるよ。うちがそうだったとは言ってないけどね」
主人は鼻で笑って、それきり何も聞かなかった。忙しい店の主人は、手が足りているうちは人の来し方に用が無い。用が出るのは、辞められたときだけだ。
昼を過ぎて、並びが店の外まで伸びた。
主人は、そこで自分でやり方を変えた。器を持ってこない客をいったん脇へ寄せ、持ってきた客から先に通したのだ。寄せられた側は文句を言ったが、寄せた理由を主人が一度だけ言うと、黙った。
「器の無い人は、うちの貸すのを使うことになる。貸したら洗って返してもらう。洗うのはこっちだ。今日はそこまで手が回らん」
こちらは、口を挟まなかった。
挟むところは、朝から数えるほどあった。並べ方も、栓の抜き方も、五勺の枡の置き場所も、こうすれば早いというのがいくつかある。それを言えば、この店のやり方が変わる。
やり方を変えてやるほど、こちらはこの店に用が無い。
用が無いというのは、冷たい話ではなく、ここが自分の場所ではないという、それだけのことだ。手は貸す。頭は貸さない。
午後のあいだ、店の中の音はほとんど同じだった。栓を抜く音、枡へ落ちる音、器へ移す音、栓を戻す音。同じ順に四つが並んで、それが一人ぶん。並びが伸びているあいだ、その四つが途切れることはない。
夕方まで立って、樽が二つ空いた。
空いた樽は裏へ運ばれて、そこに次のが積んである。裏の積みは、朝に見たときより低い。荷はいつもどおり着いているのに減っているのだから、出るほうが増えているということだ。
出ていったぶんは、全部あの通りから来ている。店が閉まって、夜の要る家が油へ回り、回ったぶんがこの樽から出て、樽のぶんだけ値が上がる。
立ちっぱなしの一日というのは、終わってから来る。膝から下が自分のものでない感じになって、それが宿まで持たなかった。途中で一度、通りの端に座った。
座った場所から、あの店の戸が見えた。閉まっている。今日も閉まっていて、明日も閉まっている。
手を洗った。水では落ちない。灰でこすると落ちるが、こすっても匂いのほうは残る。この匂いは、あの店の灯りからは一度もしなかった匂いだ。
「賃だ。ほら」
主人が、銅貨を台に並べた。
三枚。こぼした一合ぶんを引いて、三枚だった。川べりの子が半日で二枚もらう町で、一日立って三枚は、安いのか妥当なのか、こちらにはまだ分からない。
その三枚がどこの家から出てきたものかは、朝から量っていたので、だいたい見当がつく。
量るのと数えるのは、たぶん同じことだ。今日はじめて、それを知った。




