第40話「一晩ぶんでいい。取り分は半分出す」
その朝、戸が開かなかった。
この店の戸は、鐘が鳴る前に半分だけ開く。半分というのが決まりで、全部開けると人が入りすぎるからだ。七日そばにいて、開かない朝は一度も無かった。
並びは、いつもどおりに出来ていた。暗いうちから来た者が前にいて、そのあとが順に座っている。開かないと分かっても、誰も立たない。
開かない戸の前で人がどうするかは、その町の人が何を当てにして暮らしているかで決まる。あてが二つある町では、人は早々に立って別の道へ行く。ここでは誰も立たなかった。
「今日は遅いね」
「遅いだけだろ。昨日も少し遅かった」
そういう言い方で済ませて、みんな座り直した。この町の人は、開かない戸の前で理屈を言わない。理屈を言い出すのは、たいてい、明日は来なくていい人間のほうだ。明日も来る人間は、理屈より先に場所を取る。
トトは、勝手のほうへ回って中へ入った。前掛けを借りた子は、そっちから入っていい。そういう決まりになったのは一昨日からで、決まりというより、誰も止めなかっただけだ。
こちらは並びの端に立って、待った。
鐘が鳴って、そのあとに、もう半分ぶんの間が空いた。列は動かないままだった。動かないのに誰も減らないのは、ほかに行くところが無いからだ。
トトが出てきた。
「手が動かないんだって。指が、ほどけないって言ってた」
「痛むのかい」
「痛くはないって。ただ、途中で止まるって言ってた。途中で止まるのがいちばん困るんだって」
術の手つきは、途中で止まると何にもならない。半分まで組んだ形は、形ではなくただの手だ。
「入んな、って。おばさんのこと」
こちらは、それを聞いてから少し間を置いた。間を置いたのは、行くかどうかを考えたからではない。行かないという選び方が、そもそも手元に無かった。二年半前なら一つくらいはあったはずだ。いつの間にか手持ちから抜けている。
中は、相変わらず暗かった。台の向こうに女が座っている。立って迎えるということをしないのは、体の具合ではなく、この人が客に立って挨拶をする人ではないからだ。
右の手が、腫れていた。
付け根のあたりが太くなっていて、指の間に隙間がない。左手で右の指を一本ずつ開いては、また戻している。開くところまでは行く。そこから先で戻ってしまう。
術士の手が壊れるときは、たいていこういう壊れ方をするらしい。折れるのでも切れるのでもなく、同じ形を同じ速さで作りつづけたところが、ある朝ふくれて動かなくなる。長いあいだの同じ形が、そこへ寄っている。
「増やしたんだよ」
女は、こちらが何も聞かないうちに言った。聞かれる前に言う人には、聞かれたくない順番というものがある。
「あの子が順をつけてくれたから、朝のうちに受けられる数が増えた。増えたぶんは全部やった。やれると分かってやらない手は、うちには無いんでね」
同じところばかり研いでいると、砥石のほうが減って凹む。減った砥石で研いでも、刃は同じ角度にならない。
あの子のせいではない、と女は言わなかった。言わないのが、この人の話し方だ。そういう話は、言った側が損をすることになっている。
「いつ戻るんだい」
「戻るよ。前にも一度あった。十日くらいかね」
十日という数を、この人は落ち着いて言った。落ち着いて言えるのは、前に一度やっているからだ。やって、その十日のあいだに何がどうなったかも見ている。見たうえで、今年もまた増やした。
「十日、ここは閉めるのかい」
「閉めるさ。閉めるけど、外のあれは十日待たないよ」
女は戸のほうを顎で指した。指した先に何があるかは、こちらも七日ぶん知っている。
夜に灯りが要る家は、明日の夜も要る。十日のあいだに、要らなくなる家が出る。要らなくなるというのは、間に合ったという意味ではない。
「あんた、やったことがあるだろう」
女は、そこで初めてこちらの顔を見た。
「何の話だい」
「昼に、膝の上で指が動いてた。見てる人の手つきじゃなかったよ。あれは、組んだことのある手の動き方だ」
「寒かったんだよ」
「そうかい」
女は、そこで引いた。無理に重ねてこないのは、この人が物を売る側の人間だからだ。前にも一度、同じ引き方を見ている。
引いた代わりに、値のほうを先に置いた。
「一晩ぶんでいい。今日の分だけだ。取り分は半分出す」
値のついたものは、断りやすい。ただでやってくれと言われるより、ずっと断りやすくできている。この人はそれを知っていて、知ったうえで半分と言った。半分というのは、こちらを雇う値ではなく、組める人間に払う値だ。
「手つきは、見たろう。見てたのは知ってる」
「見たよ」
「名前は言わないよ。それは売りもんだ。あんたが知ってるなら、言わなくていい」
こちらは返事をしなかった。
返事をしないことで、半分だけ答えたことになる。それは承知のうえだった。承知のうえで、ほかの答え方が浮かばなかった。
この人は、こちらに何を頼んでいるのかを知らない。
一晩ぶんの灯りを頼んでいるつもりでいる。実際に頼まれているのは、この店の残りの全部と、この町の夜の全部だ。こちらが引き受けて、指を組んで、あの形を最後まで通せば、たぶん点く。点いたその晩から、この町で二度と誰も点けられなくなる。
女の手は十日で戻る。戻ったところで、組む先が無い。
そこまでを、この人は知らない。値をつけて半分と言ったのは、知らないからだ。
「返事は、日が落ちるまででいい。落ちたら今日は終わりだからね」
女は左手で右の指をもう一度開いて、また戻した。戻る音はしない。音がしないので、何度やっているのか外からは分からない。
外に出た。
列は、朝から一人も減っていなかった。前から三人目に、子供を抱えた女がいる。十日目にも、同じ抱え方で座っていた人だ。抱えられている子は、今日も目を開けていない。あの日から数えて、この人は何度ここへ来たのか。並ぶ人は、自分が来た回数を数えない。数えはじめると、並べなくなるからだ。
「おばさん」
「なんだい」
「おれ、言っといたほうがよかった? あの店の順、おれがつけたから、それで増えたって」
「言わなくていい。言っても、あの人の手は戻らない。戻らないものは、誰のせいにしたって戻らないんだ」
この子は、自分の番号のせいで人の手が壊れたと思っている。思わせておくのは、昨夜、点かないのを自分の覚え方のせいにしたこの子を、直さずにおいたのと同じだ。同じことを二日で二度やる人間を、こちらはあまり信用しない。
日は、まだ高いところにある。落ちるまでには間がある。
並びの端に立って、店の戸を見た。半分開いているのが決まりの戸が、今日は閉まっている。
閉まった戸を見ると、こちらはいつでも同じところへ戻る。戻るというより、手のほうが先に戻る。この形の戸を、一度だけ、開けてはいけないほうへ完璧に開けたことがある。開けた先に子供が二人いて、そのあと町じゅうの錠が二度と閉まらなくなった。
息を吸った。
こういうときにいつも吸うのと、同じ吸い方だった。




