第38話「名前が無いのは、覚えらんない」
入ってすぐは、棚の形も分からない。
暗いところにある物は、水を切った豆腐に似ている。しばらく置いておくと、だんだん角が出てくる。数えて三十くらいで台の高さが分かって、もう三十で、その向こうが棚だと分かった。
十五日目の朝だった。この子は言われたとおり、鐘の前にここへ来ている。こちらは戸口の脇に立っていて、そうしたら中から声が飛んだ。
「そこに立たれると、出る人がぶつかるんだよ。入るか、離れるかしな。どっちでもいいけどね」
入った。
離れるという手は、腹の中で一度も出てこなかった。理由を並べれば長くなる。短くすれば、この子が中にいるからだ。
中は、外から見て思っていたより狭い。間口は戸の幅ぶんしか無く、奥行きも、大人が四人立てば詰まる。台が一つあって、その向こうに女が一人。壁の一面が棚になっている。
棚には器が並んでいた。椀、皿、蓋の無い小壺、口の欠けた徳利。揃いのものは一つも無い。洗って伏せてある並べ方だったので、貸すほうの器だと分かった。
店の中は、油の匂いがしない。灯りを売る店から油の匂いがしないというのは、慣れるまで少し落ち着かない。鼻のほうが、明るさより先に、ここは何かが足りないと言ってくる。
座る場所は無い。客の立つところと、台の内側しかない店で、こちらは棚の端の、人の通らないあたりに立った。立つ場所を探すのだけは、この町へ来てから上手くなった。
「連れの人、その箱、座っていいよ。立たれると狭いんだ。どうせ昼までは動けないからね」
十五日いて、この店の者から何か言われたのは、今朝が最初だ。連れとして呼ばれたのであって、こちらを見て呼ばれたわけではない。
奥にも人がいるものだと思っていた。前に覗いたときは、たしかに奥で何かが動いていた。今朝から見ているかぎり、出入りしているのは女ひとりきりで、気配だと思ったのは、この人が奥へ行って戻ってくる音のほうだったらしい。
誰にも出来ない仕事を持っている店は、人を雇わない。雇えば、そのぶん見せることになる。
トトは台の内側にいた。前掛けを借りて、腰のところで二度巻いている。丈が合っていないので、動くたびに裾を踏んでいた。この子の役は、外で番号をふることだった。
「順が乱れるんだよ。暗いうちから来る人がいるからね。誰が先に来たかで、朝からひと悶着さ」
「番号ふっとけばいいんだ。おれ、川べりでもやってる」
「紙はどうすんだい」
「いらないよ。顔でいい。一度見たら入る」
女は、そこで手を止めた。止めて、この子の顔をまっすぐ見た。感心している目つきではない。入れる場所のほうを先に測る目だ。
「賃は昼までぶんだよ。川べりの半分しか出ない。それで来るかい」
「来る」
この子は外へ出て、すぐ番号をふりはじめた。端から一人ずつ、目を合わせて、数を声に出す。順が声になると、人は座るものらしい。
「そこの人が六番。その前が五番だよ。連れは数に入らないからね」
「一人で二つ頼めないのかい」
「一軒に一つだって。おれが決めたんじゃないよ」
戻ってきたときには、外の声が止んでいた。止んだと分かるということは、さっきまで揉めていたのだ。
朝のうちに来る客は、来るとまず器を出す。器を持ってこない者には店のものを貸して、そのぶんを二枚もらう。返しに来れば二枚返す。
返しに来た者が一人いた。女は器を受け取って、口のところを指でひと撫でして、それから二枚を出した。欠けていれば返さないのだと思う。撫でる速さが、確かめるにしては速すぎるからだ。
値は先だった。台に置かれた銅貨を、女は一枚ずつ指で寄せて数える。数え終わるまで、手を組まない。
二人目の客は、置いた銅貨を自分でもう一度数え直していた。数え直しても数は変わらない。それでも数え直す人はいる。
三人目で、足りない者が来た。銅貨を並べ終えて、自分で見て、それから並べ直した。数え間違いではないのは、並べ直す手つきのほうで分かる。
「明日、そろえといで。今日は貸せないよ。貸すと癖になる」
「そこを、なんとか」
「ここでまけると、明日はみんな足りなくなるんだ。あんたのぶんだけの話じゃないんだよ」
追い払う色は無かった。順を守る人の言い方で、守らなければ明日には立たない商売なのだと、言うほうもよく分かっている。
昼前から、点けはじめた。台の上に小皿を置いて、その上で指を組む。
近くで見ると、外から見ていたのとは別のものだった。組むのは片手ではない。左の親指を右の指の間へ入れて、そこで一度止める。止めているあいだ、この人は息をしていない。
音がしない。術の手つきというのは、たいてい袖の擦れる音くらいは出るものだ。この人からは、それも出ない。長くやっているうちに、余分な動きのほうが落ちたのだと思う。
小皿の上に火が点いた。
指の先ほどの大きさで、揺れもしない。
こちらの右手が、膝の上で動いた。
動かない指のほうが先に曲がろうとして、途中で止まった。止めたのはこちらだ。曲がろうとしたほうは、こちらの承知ではない。三年前に一度だけ組んだ形を、手のほうがまだ持っている。
膝の下に両手を入れて、そのまましばらく出さなかった。
点いた火は、客の持ってきた器へ移す。移すといっても、女は皿を傾けるだけだ。落ちた先で、火はまた同じ大きさに戻って落ち着く。受け取った客は、器を胸の前で両手に持って、こぼさない歩き方で出ていく。中身が湯であるかのような持ち方だった。
この子は、点けるところを三度見た。三度目のあとで、女のほうから言った。
「やってみるかい」
「いいの」
「見せたって困りゃしないよ。見て真似できるもんなら、とっくに誰かがやってる。誰もやってないだろう」
女は、さっきの倍の時間をかけて組んでみせた。親指がどこへ入るか、どこで止めるか、ほどくのは先か後か。順は全部、目の前にあった。
この子は台の上で同じ形を作った。指はそのとおりに動いている。
形は合っていた。
小皿は暗いままだった。
「名前は」
「教えないよ」
「なんで」
「そこだけが売りもんだからさ。手つきはね、いくらでも見せてやる。持って帰れやしないんだから」
この部屋で、その名前を知っている者は二人いる。片方はそれで食っていて、もう片方は、口に出したところで誰の得にもならない。
この子は、もう一度やった。指は同じところで止まり、同じところで開く。三度目もやった。形はだんだん良くなる。良くなっても、皿は暗い。
「名前が無いのは、覚えらんない」
この子は手を引っこめた。引っこめ方に、悔しさは無い。入らなかったものは、この子の中では、はじめから無かったことになる。
取っ手の外れた鍋は、中身がどれだけ残っていても運べない。
名前の無い手は、この子には持てない。
女は、それ以上は勧めなかった。勧めないところが、この人の商いなのだと思う。
この子の頭に、今日は何も入らなかった。




