第32話「あれ、なんて名前だっけ」
出ていくと決めたのは、夜中ではなかった。
昼だった。井戸端で桶を上げているときで、綱を引きながら、いつのまにか決まっていた。決まったあとの体は、蒸らし終わった飯みたいに落ち着く。何を迷っていたのかが、こちらでも出てこない。
決めるのと決まるのは違う、というのは、峠の下りでこの子に言えなかったことだ。今度も決めた覚えは無い。綱を引いて、桶を縁に載せて、水を甕へ移して、それだけのあいだに、こちら側が入れ替わっていた。
九日目だった。便は明日の朝に出る。北へ回る荷と人を載せて、四日で峠を越え、そのあと六日で北の詰所へ着く。日数はこの子が勘定して教えてくれた。勘定の早いほうではないのに、その十日だけは間違えずに言った。
便を待たなかった理由は、二つある。
一つは、明日になればこの子が乗るからだ。乗ってしまえば、こちらは正しいことをしたことになる。正しいことをした人間には、取り消す道が残らない。
もう一つは、あと一日ここにいたら、たぶん決まらなかったからだ。
この九日で、体は戻った。飯は決まった時刻に出た。誰もこちらを見張らず、誰も働けと言わず、あの人は一度も返事を急かさなかった。居心地のよさは、日が経つほど理由が増えていく。理由が増えると、出ていくほうが悪いことになる。
悪いことになる前に出る。
これは理屈ではない。理屈で立てれば、あの人のほうが上手くて、こちらが負ける。負けたところで飯は出るし、寝る場所もある。負けても損をしないから、人はああいう場所から出られなくなる。
厩へ行った。トトは馬の前にしゃがんで、蹄の裏をのぞいていた。教わった手つきになっている。
「今夜、出る」
この子は顔を上げ、それから蹄を下ろした。下ろす手つきまで、教わった通りになっている。
「出るって、どこに。宿とか決まってるの。おれ聞いてないよ」
「決めてない。北ではないほうだ。それだけ決めた」
「便、明日だよ」
「知ってる。だから今夜なんだ。明日じゃ遅い」
「なんで今夜なの。明日の朝でもいいじゃん」
「明日の朝は、便が出る。出るところに立ってると、人は乗る気になるんだよ」
この子は立ち上がり、上着の袖を折り直した。折り直すのは、考えるときの癖になっている。ここへ来てから身についた癖だ。九日で癖が一つ増える歳なのだと思う。
「おれも?」
「来る気があるなら、今夜出る。無いなら、明日の便に乗りな。どっちでもいい」
どっちでもいい、というのは嘘だった。嘘だが、ほかに言い方が無い。理由を並べれば、並べた理由でこの子を縛ることになる。縛るくらいなら、嘘のほうがまだ軽い。
この子は、そのまましばらく黙った。黙ったまま、馬の首を撫でている。撫で方は覚えたてで、まだ力が入っている。馬のほうは慣れていて、されるままにしている。
「北って、読み書き教えてくれるんだよね」
「そう聞いた。字と、馬と、勘定だと。悪い話じゃない」
「ふうん」
それから、撫でる手を止めた。
「おばさん、寂しいの?」
二年いて、この子がこちらの中身を言い当てたことは無い。今日が最初だ。言い当てるつもりも無かったと思う。聞き方が軽すぎた。
当たっている。当たっているが、当たっているというのは、こちらが言う話ではない。
「馬に嫌われてるよ、あんた。さっきから尻尾で払われてる。嫌われる撫で方してるからだ」
「話、変えた」
「変えた」
この子は笑って、それで支度にかかった。支度といっても、荷は二つとも自分で背負う子だ。することは上着を着るかどうかだけだ。
「これ、返す?」
「持っていきな。貰ったもんだろ」
夜に出た。月は細かった。
止める者はいなかった。戸に鍵は掛かっておらず、門に番はいたが、出ていく者を見る役ではない。あの人の部屋には灯りがついていた。ついていただけで、出てはこなかった。
置き手紙はしなかった。字が書けないからではない。書ける形にならなかったからだ。
礼を書けば、受け取った物の勘定を認めることになる。断りを書けば、断る理由が要る。詫びを書くのが、いちばんたちが悪い。何も置かないのが、いまのこちらに出せるいちばん正直な一枚だった。
街道を北とは逆へ取って、半刻ほどで川に出た。歩ける体に戻っているのが、この九日でいちばん得をしたところだ。
春の川は、増えていた。冬のあいだ上で抱えていたものが、まとめて落ちてくる時季にあたる。渡し場の舟は上げてあった。上げてある舟のそばに人はいない。夜に渡す者はいない。
鉄瓶の湯気みたいに、川面から霧が立っていた。
朝になれば、詰所は気づく。気づけば、連れ戻しに来る。連れ戻しというのは、この場合、悪いことではない。だからこそ、来られると面倒だった。
上流を回れば渡れる。半日かかる。半日かけているあいだに、朝が来る。
上流の浅瀬は知っている。ひと月ほど前に歩いて渡った。あのときは雨で、丸半日濡れて、そのあと三日寝込んだ。もう一度やる体でもないし、やったところで間に合わない。
「おばさん。これ、渡れないよ。舟も上がってる」
「渡れないね」
「上、回る? 前みたいに」
「回ると、朝になる。前は半日かかった。いまの体だともっとだ」
「朝になると、まずいの」
「まずくはない。連れ戻されるだけだ。悪いようにはされないよ」
「ふうん」
この子は川を見た。見てから、思いついたという顔で言った。
「ねえ、〈瀬割りの手〉ってのがあるんだ。川の浅いとこを、真ん中から空けるやつ。おれは出ないけど」
この子が、自分でそれを出した。
出したあとで、こちらを見て、川を見て、もう一度こちらを見た。
「使えば、渡れるんじゃないの」
ここで断る言い方を、こちらは十通り持っている。三日前に若いのを引かせたときのやり方が、そのまま使える。この子に喋らせて、この子のほうから引かせればいい。
やらなかった。
手袋を右手から抜いた。利く三本だけで、指のかたちを組んだ。
水が、臼の中の餅を杵で割るときと同じように、真ん中から先に空いた。空いたところに川底の石が出て、濡れた石が霧の中で黒く光った。幅は、人が二人並んで通れるくらいだった。
渡った。急ぎもしなかった。石は滑ったが、転ぶほどではない。トトが先に立ち、こちらは棒の先で底を当てながら続いた。前にも同じ並びで川を渡った。あのときは膝の上まで来なかったし、割れてもいなかった。
向こう岸へ上がって、振り返ったときには、水はもう元の高さに戻っていた。
これで、増えた川を割って渡る手は、この世に無い。
次にこの川が増えたとき、向こう岸へ渡らなければならない人間は、上流を半日回ることになる。回れない人は、待つことになる。待てない用があった人は、待てないまま終わる。それが誰なのかを、わたしは知らないし、これから先も知らない。
誰も助かっていない。助かった者が一人もいない消滅は、今日までに無かった。
もう使わない。十日あまり前に、峠の下りで、この子を相手にそう口に出した。
十日あまりだ。
トトは石に腰を下ろして、足を拭いていた。裾が濡れている。拭きながら、川のほうを見ていた。
「すごかったね、いまの」
「そうかい」
「うん。あれ」
この子は口を開けたまま、少し待った。それから、もう一度言った。
「あれ、なんて名前だっけ」




