第31話「あの子を、そばに置いておけません」
トトが、見たことのない上着を着ていた。
厩の誰かのお下がりだ。袖が長くて、二重に折ってある。折ってあるのを、この子は折ったままにしておくつもりらしい。袖の合う合わないというのは、茶筒の蓋と同じで、見ればすぐ分かる。合っていない。合っていないのに、脱ごうとしない。
八日目だった。
人の家で八日というのは、長くも短くもない。短いうちは客でいられて、長くなると、いる理由を自分で用意する側へ回る。ちょうどその境目のあたりに、いまいる。
この子は朝に厩へ行って、昼に一度戻り、夕方までまた厩にいる。戻ってくるのは、こちらが生きているかを見に来る用事らしい。見て、何か一つ喋って、出ていく。
喋る中身は、その日に覚えたことだ。藁の積み方、蹄の裏の見方、綱の結び目の名。覚えたものをどこかへ移さないと据わりが悪い子で、こちらはいちばん近い移し先だった。いまは厩のほうに、もっと近い出し先がある。
詰所の者は、この子をよく使っていた。使うというのは、ここでは可愛がるのと変わらない。水を運ばせ、藁を替えさせ、馬の名前を覚えさせる。用の無い子を可愛がる余裕は、どこの家にも無い。用があるから可愛がられる。覚えるのは得意なので、三日で八頭ぶん言えた。言えた日に、上着が出た。
昼を回ったころ、下から声がかかった。
あの人は今日も座って待っていた。卓には湯呑みが無い。何も出ていないというのは、短く済ませる用だという合図だ。八日のあいだに、この家の合図はだいたい読めるようになった。読めるようになったこと自体が、いる時間の長さを示している。
「先にお詫びします。今日は、聞きたくないことを言います。すみません」
「そういう前置きをする人は、本当に言うね。いいよ」
あの人は卓の上で手を組んだ。術のそれと違うのは、指の掛け方ですぐ知れる。ただ手を置いただけの形だった。
「あの子を、そばに置いておけません」
こちらは黙っていた。次が来るのを待った。
「うちの若いのから聞きました。あの子は術の名前を全部言えると。使えない名前も、もう誰も使わない名前もです」
「そうだろうね。二年ぶん入ってる」
「そのうえで伺います。名前さえ知っていれば、あなたは使える。違いますか」
違わない。
あの人は、こちらが黙って抱えていた穴を、外側から見つけていた。三年ぶんの道を逆にたどれる人間なら、そこまでは行き着く。行き着いたところで、こちらから渡した手がかりは一つも無い。
第一、この穴はこちらにも厄介なものだった。使わないと決めたところで、名前は勝手に入ってくる。入ってきたものは出ていかない。そこを塞ぐ方法は、いまのところ一つしかない ―― 名前を持っている者を、そばに置かないことだ。
「あなたが使わないと決めても、隣に名前の束があるかぎり、決めたことの外で手が動きます。一度そうなった、という話も聞きました」
「誰から」
「あの子からです。井戸に落ちた子の話を、厩でしていました」
あの子は、あの日に何が起きたかを知らない。知らないなりに、目で見たままを喋る。喋った先に、こういう耳があった。
「追い出すのではありません。うちで預かります」
「預かる」
「北の詰所へ回します。あちらは徒弟を取っています。読み書きと、馬と、街道の勘定を仕込む。名前を覚えるのが速い子は重宝されます。術も教えます。出る出ないは、本人の手次第ですが」
言い分に、角が一つも無かった。杓文字で平らにならした飯と同じで、どこを持ち上げようとしても指が滑る。怒れる形をしていないものは、受け取るしかない。坂の町の広場で町の人に言われたことと、形だけは同じだった。
この話は、この子にとっては上等だった。
ここが肝心なところで、こちらの都合とは関係が無い。悪い話なら、断る理由はいくらでも並ぶ。並ばないのは、それがこの子にとって上等な話だからだ。
飯が出る。寝る場所がある。覚えることがあって、覚えたぶんを人が受け取る。冬に薪を割って、銅貨を貯めて、腕のいい人を探して歩く暮らしよりも、どこをどう見ても上等だ。
わたしの隣にいるかぎり、この子は一生、名前を言うたびに誰かの町を一つ壊す手伝いをする。本人は知らないままだ。
反論する材料を探した。探して、無かった。
あるとすれば、こちらが寂しいという一点だけになる。それを口に出すには、二十六年ぶんの言い方の癖が邪魔をする。この人はこちらの寂しさを勘定に入れて話を組んではいないし、入れてくれと言う筋合いも無い。
腹の底が、火箸で一点だけ突かれたみたいに冷たくなった。
「いつ」
「急ぎません。次の便は明後日の朝です。その次でも構いません」
「その前に、あの子に話すのかい」
「あなたから話すか、こちらから話すか。そこは選んでいただけます」
選べる、というのは、選ばせているのとは違う。どちらを取っても同じ先へ出る道が、二本あるというだけだ。こういうものを差し出すのが、あの人は上手い。
部屋へ戻らずに、厩へ行った。日はまだ高く、中庭の土は乾いていた。春の昼というのは、こういう話をするには明るすぎる。
中庭を横切るあいだに、言い方を三つ考えた。三つとも途中で崩れた。崩れる理由は同じで、どれも最後に「だから行くな」が付いてしまう。付けないやり方が、こちらにはまだ無い。
トトは馬の脚を拭いていた。拭き方はまだ下手で、上から下へやっている。下から上だと言われたのを、たぶん三度は聞いている。
「ねえ、見て。この馬、名前があるんだよ」
「馬はだいたい名前があるだろ。呼ばないと動かないんだから」
「そうじゃなくて。ここの馬、みんなある。八頭ともだよ」
この子は八つ言った。詰まりもせずに言った。並べ方に順があって、たぶん厩の並びのまま覚えたのだろう。この子の頭は、いつでもそういう入れ方をする。
話した。北の詰所のこと、徒弟のこと、読み書きと馬と勘定のこと。ギルドが預かるということ。こちらは行かないこと。
順番は考えずに、出てきた通りに並べた。考えて並べると、並べ方のほうに意味が乗る。乗せたくなかった。
この子は途中で拭く手を止め、布を桶の縁に掛けた。掛けたあとで、顔だけこちらへ向けた。
「おばさんは、ここに残るの」
「たぶんね。まだ決めてない」
「じゃあ、近いじゃん。北って、どのくらい?」
「知らないよ。便で十日はかからない」
「十日。一年に何回も会えるね。冬はどうかな」
この子は指を折った。折って、数えて、途中でやめた。数えるのが早いほうではない。
「おれ、読み書きできるようになるかな」
「なるだろ。名前を八つ覚える頭があるんだ。字くらい入るよ」
「馬の名前だよ」
「同じことだ」
この子は笑った。笑ってから布を取り、また馬の脚を拭きはじめる。上から下へやっていた。
「おばさん、おれ、行っていい?」




