第30話「あんた、何が見たいんだい」
朝、左を下にして目が覚めた。
去年の夏からこっち、この体は、横になる向きを一つずつ選んで寝てきた。選ばずに寝て、選ばずに起きたのは、ずいぶん久しぶりのことになる。折れた場所は、もう押し戻してこない。
右手のほうは変わらない。二本が、物を握る段になると付いてこない。これは戻らないし、戻す手も世に無い。無いものを待つのは、去年のうちにやめた。
首の痣は、もう触っても分からない。冬じゅう割れていた手の皮も、二日ほどで元へ戻った。人の体というのは、放っておくと勝手に直る部分のほうが多い。直らない部分だけが、こちらの手元に残る。
六日たっていた。
詰所の一日は、柄杓で湯を移すのと同じで、こぼれるぶんが決まっている。朝に厩と井戸の水、昼前に街道からの便、夕方に戸締り。飯は同じ時刻に出て、おひつの飯は、蓋を開けるたびに同じ顔をしている。
誰もこちらに何もさせなかった。働けと言われない暮らしは、思ったよりも落ち着かない。落ち着かないので、薪を運んだり、桶を出したりした。やらなくていいと言われて、それでもやった。
人の家で何もしないでいると、いるだけで減っていく物の勘定が、頭の中で勝手に始まる。飯の量、薪の量、洗う物の数。始まったところで、ここでは誰もそれを言わない。言わないので、こちらの中でだけ数が伸びていく。
三日目から、誰も止めなくなった。止めなくなったというのは、その家の者の側へ入れられたということだ。ありがたい話で、そこが厄介だった。
馴れるというのは、擂鉢に入れた胡麻と似た按配だ。当たられているあいだは形があって、あるつもりでいるうちに、いつのまにか無い。
トトは厩に入り浸っていた。馬の世話を教わり、藁の替え方を覚え、今度はそれを誰かに教えようとして、教える相手が馬しかいないので馬に向かって喋る。覚えたものを外へ出さないと落ち着かない子で、出す先が馬でも本人には同じことらしい。この子はここが気に入っている。飯が出て、寝る場所があって、覚える仕事がある。二年のあいだ、この三つの揃った土地にいたためしがない。
六日目の昼前に、若いのに呼び止められた。厩と井戸のあいだの、人ひとりぶんの通り道でだ。
詰所の術士で、歳は二十かそこらだ。厩の水回りをやっている。手が大きくて、指の付け根に胼胝がある。術士の胼胝ではなく、桶と綱の胼胝だった。
術士の手というのは、本当のところ、あまり術士らしくない。指を組む仕事は一日に何度もあるものではないので、残りの時間はたいてい、綱か桶か帳場の仕事に取られている。
「あの。お願いがあるんですけど」
「言ってごらんよ。急ぎじゃないなら座りな」
「一つでいいんです。見せてもらえませんか」
こちらは桶を置いた。置いてから、この若いのが何を承知していて何を承知していないかを、順に並べてみた。
この若いのは、たぶん何も聞かされていない。あの人は、知っていることを全員に配るやり方をしない。配れば、配ったぶんだけ人の口から出ていく。
だからこの子は、ただ「腕のいい術士が泊まっている」と思っている。
断るのは簡単だった。簡単だが、断れば角が立つ。角の立ったところをあの人に拾われると、こちらはまた一つ、借りのような顔をした物を受け取ることになる。ここの居心地がいいのは、そういう物が一つずつ増えているからでもある。
使うのは、もっと簡単だった。それだけはしない。
この若いのが見たがっているのは、たぶん一度きりの見世物だ。こちらが指を組めば、たぶん見せられる。見せたぶんは、この世のどこかの村から永久に無くなる。釣り合いというものが、この取引にはまるきり無い。
それで、聞き返すことにした。こちらから何かを差し出すより、ずっと安く済む。
「あんた、何が見たいんだい」
「え。何って、術です。使うところを」
「術のどれ」
若いのは口を開き、そこで詰まった。
この詰まり方には見覚えがある。うちの子が、よく同じ顔をする。頭の中に品物が並んでいないまま、注文だけ先に口から出た顔だ。
「じゃあ、聞き方を変える。あんた、いま何ができる」
「おれは……水を上げるやつを、少し。あと、火の周りのを二つ」
「水を上げるほうは、いま出るのかい」
若いのは、そこで手を組みかけた。組みかけて、半分で下ろした。
「……最近、出ないんです。冬のあいだは出てたのに」
出るわけがない。あれは春のはじめに、井戸のある村で、こちらが撃った。
「腕が落ちたんだと思います。冬に休んだから」
「そういうこともあるだろうね。冬は誰でも鈍るよ」
ここまでで、話の向きは変わっていた。この若いのが聞きたいのは、こちらの術ではなくなっていた。自分の手が出なくなった話のほうへ、ひとりでに寄っていく。
人は、自分の困りごとが並んだ場所からは離れない。並べてやれば、そこに座る。座ってしまえば、来たときの用は後ろへ行く。
「どうすれば戻りますか」
「わたしに聞くことかい」
「だって、上手いんでしょう。名の通った人だって聞きました」
「上手いと言われる側はね、自分の手の中しか見えてないんだよ。他人の指の具合なんか分かるもんか」
若いのは、少し笑った。笑われたので、こちらも笑い返した。
「ノレさんに聞いたらどうだい」
「聞きました。休めって言われて、それきりです」
「じゃあ休めばいい。わたしが何か見せたところで、あんたの水は上がらない」
若いのは、そこで納得した。納得の仕方が早かった。もともと、そんなに見たかったわけではないのだと思う。人に何かを頼むのは、頼む理由の半分くらいは、頼みたいだけのことが多い。
「すみません。変なこと言って。忘れてください」
「変じゃないよ。桶、そっち持つから。行こう」
二人で桶を運んだ。桶は片側を持てば済むので、こちらの手でも足りる。運びながら、この若いのは馬の話を三つした。三つとも同じ馬の話だった。
何も使わなかった。断ってもいない。相手は満足して帰り、こちらは桶を運んだ。
こういう終わり方をした日は、これまでほとんど無かった。使えば町が一区画ぶん貧しくなり、使わずに済ませれば誰かが困って、困ったまま帰る。今日はどちらでもない。
こういうやり方があるというのを、わたしは二十六年やってきて、今日まで知らなかった。逃げるか、手でやるか、その場から消えるか、そのどれかだった。相手に喋らせて、相手のほうから引いてもらう、という手が、この世にはある。
術ではないので、使っても何も消えない。
夕方、卓のところであの人とすれ違った。向こうは何も言わない。聞いていたのか、いなかったのかも知れない。知らないままで置いておくほうが、こちらには具合がいい。
厩の戸が開いて、トトが出てきた。
後ろから、藁を抱えた男が二人ついてきている。三人とも同じ方向へ歩いていって、途中で一人が何か言って、笑った。
「トト、こっち置いといて」
名前で呼ばれていた。




