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しまい手 ―― わたしが使った魔法は、世界から消える  作者: モリタ・ハク


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第29話「使わないでいてくれ、それだけです」

湯に入った。


 裏の小屋に据えた木の桶で、湯は釜から柄杓で移す。移すのは自分でやった。人に頼めば早いが、頼むと、こちらの体を人に見せることになる。


 見せたくない体をしている。


 左の肋は、去年の夏に折られてから、形が元に戻っていない。触ると段になっているのが分かる。右手は二本が、握るときだけ動かない。首の痣はもう色が抜けたが、抜けたあとの皮膚だけが薄いままだ。それに、冬じゅう納屋で寝ていたぶんの、乾いて割れた皮が、あちこちに残っている。


 どれも、術で直せた。直せる手が世にあったころの話だ。


 湯に肩まで入れたのは、いつ以来か出てこない。泡は、粥の吹きこぼれみたいに縁から先に崩れていった。


 湯というのは、体の悪いところを順番に教えてくる。それも、こちらが聞いてもいないのに教えてくる。冷えていた場所から先に痛みが戻り、戻ってから、そこが冷えていたのだと知れる。この冬のあいだ自分の体のどこが死にかけていたかを、こちらは把握していなかった。把握しないでいるほうが、歩くには具合がよかった。


 出てから飯を食った。麦と、汁と、塩で締めた魚だ。魚は街道の宿場ではあまり出ない。運ぶのが厄介なので、出るのはたいてい、客にではなく身内に食わせる日になる。


 身内に出すものを出された、ということになる。これを親切と取るか、位置づけと取るかで、こちらの居方が変わってくる。飯を食いながらそういうことを考えるのは、われながら行儀が悪い。


 トトは二杯食べて、三杯目を遠慮して、遠慮したことをこちらに見せた。見せたので、食えと言った。


 昼まで、誰も何も言いにこなかった。


 何も来ない、というのが効く。急かされれば、急かされたぶんだけこちらは固くなれる。何も来ないと、固くなる先が無い。人を待たせるのが上手い家というのは、待たせているように見せないものだ。


 二階の部屋で寝ていてもよかったし、外へ出てもよかった。門に番はいるが、出る者を止める役ではないらしい。トトは厩へ行き、馬を見て、いったん戻り、すぐまた出ていく。


 昼を過ぎてから、下へ呼ばれた。


 イサ・ノレのほうは、卓の向こうに座っていた。今日は立っていない。立っている人と座っている人では、話の入り方が違う。この人は、そういうことを考えて座る人だった。


「昨日、急ぎませんと言いました。今日でよければ、話します」


「聞くよ」


「では、こちらが知っていることから」


 その人の話の運びは、串に刺す順を先に決めてから焼く人のやり方に近い。焦げる側から片づけていく。


「三年前の冬に、トゥーリの西の三つの町から、灯りを保つ手が一度に消えています。同じ月に、同じ形で。使い手が四十人ばかり、手順を出せなくなっています」


「そう」


「去年の夏の終わりに、トゥーリで錠の手が消えました。冬に、もう一度同じことが起きています。同じ町で、同じ手が、二度」


 二度、のところで、こちらは指の一本も動かさずにいた。動かさないというのも、一つの動かし方になる。


「骨と病を継ぐ手は、谷の村から。火を熾す手は、冬のトゥーリから。井戸の水を上げる手は、先月、街道沿いの村から」


 全部、合っていた。日付も、場所も、順も。


「よく調べたね」


「調べたというほどでは。どれも大きい手ですから、消えれば人が困る。困った話は道を伝わります」


「それで」


「それで、道を逆にたどると、いつも同じ人が、少し前にその土地にいます」


 この人は、そこで一度、間を置いた。急いでいない人の間の置き方だった。


「あなたが使うと、その術は世に無くなる。そこまでは分かっています」


「ずいぶん詳しいね」


「そこまでです。なぜそうなるのかは、うちの誰にも分かりません。分からないので、調べるのはやめました」


 やめました、と言った。そこがこの人のいちばん妙なところだ。分からないものを分からないまま置いておくのは、この手の連中がいちばんやりたがらない。名前を付けて、並べて、順番を決めないと気の済まない側の人間のはずだった。


 それをやめられる人が、いちばん質が悪い。理屈をあきらめた相手は、こちらの理屈を崩しにこない。


「調べないのかい」


「調べても、たぶん止まりません。止めたいだけなので」


 卓の上には、何も出されなかった。紙も、書きつけも、印も無い。盆に載って出てきたのは湯呑みが二つきりで、そのうち一つはこちらの前に置かれた。


 こういう場では、たいてい何かが出る。約束の紙でなくても、印のある物でも、置いてある道具でもいい。物が一つあると、話はそちらへ寄る。この人は寄せる先を作らなかった。


「本題です。ここにいてください」


「ここに」


「どこでもいい。うちの持っている建物なら、どれでも。飯と寝るところは出します。働けとは言いません。銭は、要るぶんだけ」


「見返りは」


「使わないでいてくれ、それだけです」


 湯呑みの湯気が、途中で切れて、また立った。


 この人は正しい。使わなければ、もう減らない。減らなければ、この先どこの町も、いま持っているものを持ったままでいられる。


 こちらが今日から一度も手を組まなければ、ネルバの術は今日のところで止まる。止まったところで、消えたものが戻るわけではない。ただ、それ以上は減らない。取り返す話ではなく、止める話だ ―― この人は、そこを取り違えていない。


 峠の下りで、あの子を相手にこちらが並べたのと、中身が一つも違わない。


 四日前、峠を下りながら、もう使わないと口に出した。あのときは自分の中から出てきたものだった。同じ中身が、他人の口から条件として出てくると、まるきり別の形になる。


 どこが違うのかを、うまく言えない。


「返事は」


「まだ」


「結構です。急ぎませんので」


 その人は湯呑みを持って、口をつけて、置いた。置く音がしなかった。


「一つだけ、先にお伝えしておきます。うちは、あなたを閉じ込めません。戸に鍵は掛けませんし、番も付けません。掛けたところで、あなたには意味が無いでしょう」


 意味が無い、というのは、たぶん錠のことを言っている。


 言われてみれば、この世でわたしだけが、掛かっている錠を一度で開けられた。開けられたが、その手はもう無い。その手を世から抜いたのはこちらで、それを承知している者は、いまこの部屋に一人きりだ。


 この人の言い分には、穴が一つある。使わなければ減らない、というところだ。


 わたしは、使わなくても増える。あの子が誰かに名前を教えるたび、こちらの撃てるものが一つ増える。増えたぶんは、出ていかない。


 口には出さない。出せば、この人はあの子のほうへ目を向ける。


 部屋へ戻った。


 階段は今日も鳴らなかった。トトは厩で寝るとまで言いだして、それは断らせた。断った理由を自分で探したが、出てきたのは「離れると面倒だ」だけだった。面倒というのは、便利な言葉だ。


 窓を押した。外へ開く。厩の屋根に降りて、そこから塀へ渡れば、あとは宿場を抜ける道だ。昨日そこを歩いてきた。


 下りるぶんには、半日もかからずにここを出られる。


 出ていく理由が、一つも思いつかなかった。

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