第28話「その名前で呼ばれたのは久しぶりだ」
トトが、こちらに断りもなく荷の底を開けた。
布に巻いたやつを出して、巻きを解いて、片手に持った。峠を下りてから三つ目の宿場の、大通りの真ん中でだ。
「これ、使っていいでしょ」
「よくない。あれは受け取ってない」
「じゃあ今夜どこで寝るの。橋の下? おばさん、まだ本調子じゃないじゃん」
この子は、こういうときだけ言い方を選ばない。選ばないのが正しい場面もある。
春の宿場は、せいろに並べた饅頭みたいに詰まっていた。どの宿も同じ間隔で客を入れて、それ以上は入らない。峠が開いて、冬じゅう上で詰まっていた荷と人が、いっぺんに下りてきている。四軒回って、四軒とも断られた。断られる順番も決まっていて、まず表の帳場で首を振られ、それから奥へ声をかけてもらい、奥からも同じ返事が来る。四軒めでは、奥へ声をかける手間を省いてくれた。
断り方は親切だった。厩の隅でよければ、と言った家もある。ただ、厩の隅には先客が三人いて、そのうち二人はもう横になっていた。春の宿場で場所を探すというのは、雪どけの川で石を探すのと似ている。目に入るものには、たいてい誰かが先に足を置いている。
木札は、こちらが荷の底へ入れたまま、半月ばかり触っていなかった。触っていないだけで、あることは知っていた。知っているというのは、始末が悪い。無ければ、無いなりに橋の下で寝る。
この子の手の上にそれがある。返せとは言わなかった。
「どこに見せるんだい」
「そこ。門のとこに人がいる。さっき見た」
宿場の外れに、石を積んだ塀と門があった。詰所だ。二階建てで、裏に厩がある。看板は出ていない。出ていないのに、どの土地の人間も、あれがそうだと知っている種類の建物だった。
術士のギルドが街道に置いている建物は、たいてい宿場の端にある。人の集まるところの、少し外。用のある者だけが寄ればいいという置き方で、これは町の中にある錠前屋や鍛冶とは考えの筋が違う。
門の脇に男が一人いて、荷を降ろした者と何か話していた。トトが割り込んで、木札を突き出した。
「これ。これ持ってたら、通れるって聞いた」
男は木札を受け取って、焼き印を指で撫でた。撫でてから、こちらを見た。
「これ、どこで」
「もらった。冬に、トゥーリで。置いてったんだ」
男はもう一度、印へ目を落とした。それから門の中へ首を回して、誰かの名前を呼んだ。
捕まるのだと思った。思ったのと、身構えたのとは違う。この体では身構えても始まらないので、立っていただけだ。
そうならなかった。
男は木札をこちらへ返して、門の内側へ手をやった。入れ、という手つきだ。
「奥の戸から。上がって、右です。すぐ分かります」
礼を言わせる間も、断る間もなかった。トトはもう入っていた。この子は入れると分かった場所には迷わず入る。こちらは、入りたくない場所に入るときの足取りというものを、何十回もやっている。今日もそれをやった。
中は思ったより静かだった。人は四、五人いて、それぞれ別の用を進めている。こちらへ目を上げる者はいない。見ないことが仕事の一部に入っている場所なのだろう。
奥の戸を開けた。部屋の真ん中に卓があって、その向こう側に女の人がいた。
厚い外套は着ていない。肩の木札も提げていない。それでも、誰なのかは分かった。冬の朝に、納屋の戸の板を叩いて、指を組みかけて止まった人だ。
歳は三十の半ばくらいに見える。背は高くなく、袖の丈が合っている。旅を続けている人間の袖は、どこか合わなくなるものだが、この人のは合っていた。
「お久しぶりです」
「そうだね」
「あのときは、自分が何をしかけたのかも分からずじまいで。お恥ずかしい話です」
その人は笑った。笑い方は覚えていた。
こちらの中では、あの朝のことは片づいていない。この人があの朝に取りに行った手は、その前の晩にこちらが消したものだ。指が半分で止まったのは、行った先が空だったからだ。ほかに説明の要る話ではない。
黙っていた。言ったところで、この人の側に受け取る形が無い。
「座ってください。話は急ぎません」
「話があるのかい」
「あります。ただ、今日でなくていい。急ぐ話ではないので」
その人の喋り方は、おろし金にかけたみたいに角が落ちていた。押してこない。押してこないのに、こちらの返事を待たずに次へ行く。
「まず、風呂と飯です。それから寝てください。お連れの子も」
「銭は無いよ」
「要りません」
「そういうのがね、あとで高くつくんだ」
「ええ。そう言われることが多いです。だいたい、当たっています」
その人は卓の上の物を端へ寄せて、こちらの荷を置く場所を作った。作り終えてから、手をそこへ置いたきりにしている。
「わたしはイサ・ノレといいます。ここを預かっています」
名乗られたので、こちらも名乗ることになる。そう思っていたら、その前に言われた。
「ヤナ・クルトさん」
息を止めた。止めたのが分かるくらいには、止めた。
その名前で呼ばれたのは久しぶりだ。久しぶり、という言い方では足りない。あの町でも、その前の村でも、その前の道でも、誰もその二つを続けて言わなかった。呼ばれるのは「おばさん」か、「旅の人」か、「あんた」だ。噂の中でだけ、別の呼び名が歩いている。
名乗らずに済ませてきたのではない。名乗る場面が一度も来なかった。来なかったから、こちらもそれで済んでいた。
「どこで」
「いくつかのところで。順に聞いていきました」
「順に」
「ええ。急いでいなかったので」
「わたしを探してたのかい」
「探すというほどのことは。どのあたりにいらっしゃるかが、だいたい分かっていたので」
急いでいなかった。その一言がいちばん効いた。追われるというのは、相手の側が急いでいる状態を指す。この人は急いでいない。急がないで済む理由が、この人の側にある。
トトが横から割り込んだ。
「おばさんの名前、そんなだっけ」
「そんなだよ」
「知らなかった」
二年のあいだ名前を覚える仕事をしてきたこの子が、こちらの名前だけ持っていない。覚える折が一度も来なかっただけで、この子に落ち度は無い。
イサ・ノレは、そのやりとりを黙って見ていた。見ていて、何も足さなかった。足さないほうが、こちらには嫌だった。
二階へ上がった。階段は、箸を置くみたいに音を立てない造りで、木が新しいわけでもないのに軋まなかった。
部屋は右の突き当たりだった。寝台が二つ。窓が一つ。戸には閂が付いていて、内側から掛けられる。掛かるほうの閂だ。
窓は嵌め殺しではなく、押せば外へ開く。下は厩の屋根で、そこから塀までは人の背ほどしかない。こういうものを先に見てしまうのは、長いあいだそうやって寝てきたからで、癖のようなものだった。
布が敷いてあった。乾いていて、干したばかりの匂いがした。桶に水が汲んであって、手拭いが畳んで置いてある。厩のほうから、馬の音がしていた。
寝台の一つに、こちらの背丈に合わせた足置きが寄せてあった。もう一つのほうには、子供が上がりやすいように踏み台がある。
今日のうちに用意した部屋ではない。




