第27話「畑を起こすやつ、って言ってた」
峠の手前から、道の土が変わった。
それまでは踏み固めた黒い土で、雨のあとでも締まっていた。ここからは赤くて、粒が粗い。踏むと沈んで、抜くと足の形が残る。上のほうの斜面も同じ色をしていて、木がまばらだ。根の張っていない斜面と、水を含んだ赤い土。この取り合わせは、どこであろうと同じことをする。
歩くのはできるようになっていた。走るのはまだ無理で、担ぐのも無理だ。荷のほうは相変わらず、この子が二つとも背にしている。
道連れは三人いた。峠を越える者は固まって行くものらしい。前を行くのが馬を引いた男で、そのうしろに、鍋や鎌を包んだ荷を背負った行商が二人。追い越しも追い越されもせず、半日、同じ順で歩いた。
顔は覚えたが、名は聞かなかった。峠を越えるあいだだけの並びで、下りきれば別々の道へ入る。そういう相手の名を聞くのは、こちらの流儀ではない。
トトは行商の若いほうと喋っていた。喋る相手を見つける速さだけは、この子は誰にも負けない。
「〈土返しの手〉。畑を起こすやつ。春に一回やると、鍬が三日ぶん浮くんだって」
「へえ。そりゃ楽だ。うちの村にも欲しいね」
「でも、うちの村じゃ誰も使えなかった。名前だけ知ってても、出ないんだよ。ぜんぜん」
「そんなもんかい。もったいない話だな」
「そんなもんだよ。おれも出ない」
「じゃあ、覚えて何になるんだ」
「なんにもならない。でも、忘れるよりましでしょ」
聞いていた。聞こえる場所を歩いていたのだから、入ってきたのはこちらの落ち度だ。
その名前は、もう出ていけない。
崩れたのは、峠を越えて下りに入ってすぐだった。歩きだして、二十歩も行っていない。
音は、上から来たのではない。足の下で一度、低く鳴って、それから斜面が動いた。動く、という言い方が近い。落ちてくるのではなく、斜面のほうが一枚ぶん、道の上へ移ってきた。
先を歩いていた馬が跳ねて、男が引きずられて、そこで土が来た。
止まるのは早い。二度息を吸うあいだに、道の半分ほどが赤く埋まって、静かになった。静かというのが、いちばん腹の立つところだった。あれだけのものが動いたのに、済んでしまえば、ただ道が細くなっただけに見える。
馬は向こう側にいた。男はいなかった。
行商の二人が土手を回って、埋まったところへ走った。こちらは走れないので、歩いた。歩いて着いたときには、二人はもう掘っていた。手で。鍋を包んだ荷を解いて、平たいものを探している暇は誰にも無い。
埋まった深さは、膝から腰くらいに見えた。見えるのと、掘れるのとは別だ。掘った土は、鍋から移した飯と同じで、戻すと嵩が合わない。退けたそばから上の斜面が少しずつ降りてきて、退けたぶんが埋め直されていく。
人を掘り出すのは、思うより時間の食う仕事だった。急ぐと崩す。崩せば、いま出したぶんがまた上に乗る。急いではいけない作業を、急がなければならない場所でやることになる。
声がした。
土の下から、水に沈めた椀の泡みたいに、途切れて上がってきた。言葉ではない。息の音だ。
「生きてる。おい、生きてるぞ」
行商の年かさのほうが叫んだ。若いほうは一度だけ斜面を見上げ、すぐ手に戻った。見上げたのは、次がいつ来るかを確かめるためだろう。
こちらも掘った。右は二本が利かないので、左を主にして、腕の力ではなく体を倒して押す。掘るというより、寄せる。寄せているあいだ、爪の中に土が入って、梅を漬けたあとみたいに黒くなった。
トトは頭のほうを探していた。場所の見当だけは、この子は早い。「ここ。たぶんここ」と言って、そこを掘らせた。実際、そのあたりだった。
〈土返しの手〉は、土を返す手だ。畑を起こすときに使う。一度で、鍬三日ぶん。
いま、この道の土を一度で返したら、下にいる男の上から土が無くなる。
指は、動く三本で足りる。名前はさっき道で入ってきたばかりで、この世からはまだ誰も持っていっていない。使えば必ず出る。出ると知れている手を持って立つのは、ずいぶんひさしぶりのことだ。
掘った。そのまま掘りつづけた。
息の音は、途中から聞こえなくなった。聞こえなくなってからも掘った。掘る速さは変えずにおいた。変えたら、変えたことが自分に知れてしまう。
肩が出て、顔が出たときには、済んでいた。土を払う手は、誰からもすぐには出てこなかった。
行商の年かさのほうが、男の口に指を入れて土をかき出した。若いほうが背中を叩いた。ひととおりやって、二人とも手を離した。離し方を見れば、この人たちがこういう場に慣れているのが知れる。
馬は無事だった。荷も半分残った。土は、まだ少しずつ降りてきている。
「あんた、助かったよ。あんな腕で、よく掘ったな」
年かさのほうがこちらに言った。
「三人だったら、頭のほうまで届かなかった。人手がもう一つあったのが大きい」
礼を言われた。掘ったことについてだった。
受け取った。押し返す言い方を探すほうが、この場では邪魔になる。
男を道の端まで運んで、荷と一緒に布をかけた。運ぶのは手伝えなかった。担ぐのがまだ無理で、これは本当のことだ。本当のことがあると、便利だ。
馬は、道から少し外れた草を食っていた。引く者がいなくなったので、行商が綱を取る。持ち主を失くした馬の扱いは、この道では手順が決まっているようだ。次の宿場まで引いていき、そこへ預けるのだという。
日が傾いてから、下りの道を歩きだした。道連れは峠の宿へ戻ると言った。こちらは先へ行くことにした。
しばらく、この子は喋らなかった。
半刻ほど下りたところで、前を歩いたまま、こちらを見ずに口を開いた。
「おばさん。〈土返しの手〉、知ってたよね。さっきの、あれ」
「知ってた。来る途中で聞いた」
「おれが言ったから」
「そう。あんたのせいじゃないよ」
声はまだ平らだった。この子は泣くときに先に喉が閉まる質で、閉まっていない。
「なんで使わなかったの」
歩きながら答えた。立ち止まって言うようなことではないと思った。
「使えば消える。消えたあとは、次に畑の埋まった村を、誰も起こせない」
「その村の人、いま埋まってないじゃん」
「まだ、ね」
「まだって、いつ。来年? 十年後?」
「分からないよ。それが分かる人間は、どこにもいない」
「分からないのに、いまのを置いてくの」
「置いてきた」
「でも、あの人はいま埋まってた」
この子の言うほうが正しい。正しいことを、この子はちゃんと言えるようになっていた。
そこで足を止めた。
「わたしは、もう使わない」
「……いま決めたの」
「いや。今日、決まった」
決めたわけではなく、決まった。この二つは自分の中では別物で、その違いを、いつかこの子に説明できる日が来るとも思えない。
この子は返さなかった。前を向いて、また下りはじめる。歩幅は、こっちの足に合うところまで狭くなっていた。そうと悟らせずに狭める手つきを、この子は冬のうちに身につけている。
下りきったところに沢があった。
水は冷たくて、赤い土がよく落ちた。爪の中は一度では取れない。二度目で、だいたい取れた。
あの井戸端で、すぐ横にいた年寄りが最後に寄こしたのも、この言葉だった。今日はそれを、人に言われる前に自分でやった。




