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しまい手 ―― わたしが使った魔法は、世界から消える  作者: モリタ・ハク


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第26話「待つしかないよ、こういうのは」

額に、誰かの手が乗っていた。


 冷たい手だった。冷たいのではなくこちらが熱いのだと、少し置いてから知れた。手はすぐに離れて、そのあとで濡れた布が置かれた。布は、漬け込んだ菜を引き上げるみたいに重かった。


 誰の手なのかは知れない。知れないまま、同じことが何度かあった。


 倒れたのは、麦の家を出て二日目の昼だという。道の脇へ寄って、そのまま座り込んだのだそうだ。人の話でしか書けないのは、そのあたりが自分の中に残っていないからだ。


 心当たりのほうはある。川の上流を回った日に、半日ぶん体を濡らした。乾かないうちに寝て、次の日には畝の手伝いへ入っている。種を選り分ける仕事は座ってできるので、楽をしている気でいた。


 あのとき舟に乗っていれば、濡れずに済んだ。乗らなかったのはこちらの都合で、その都合の勘定書きが、二日遅れで届いたことになる。


 こちら宛てに届いたのは、これが最初だ。


 寝かされていたのは、街道から少し入った家の土間の上がりだった。年寄りの夫婦と、その息子の嫁がいる。息子は畑に出ていて、ほとんど顔を合わせなかった。


 上がりに寝かされるのは、いちばん都合のいい置き方だ。土間からすぐ手が届いて、寝ている者が家の奥を塞がない。旅の者を泊めることに慣れた家の、慣れた場所だった。


「起きなくていいよ。水は?」


「もらう」


「二日目だよ、今日で。あんた、道で寝てたんだ。連れの坊主が呼びに来てね」


「そりゃ、手間をかけた」


「手間はいいよ。あの子が薪を割ってる。割り方は下手だけど、量は割る」


 嫁のほうが椀を持ってきた。中身は白湯で、出がらしの茶みたいに、色だけが薄く残っている。飲むと喉が痛んだ。痛いのは、飲まないでいた時間の長さのぶんだ。


「薬は」


「無いよ。この時季は峠を越えないと買えない。買っても、熱の薬なんて効いた試しがない」


「そうかい」


「待つしかないよ、こういうのは。うちのも去年やった。八日寝て、九日目に起きた」


「九日目に、何かしたのかい」


「何も。九日目になったのさ」


 この人が慰めにかかっているのでは、たぶんない。八日という数を、去年そうだったから口にしている。八日で済まなかった人のことは、この家では話に出ない。


 布が替えられて、上に掛けるものが一枚増えた。できることは、それで全部だ。それ以上のことをしないのは、意地でも怠けでもない。手が無いからやらない、という言い方すら、この家には無い。


 継ぎの手があれば、一息だった。


 骨も傷も病も継ぐ手で、熱くらいなら、指を組んで、一度で引く。去年の夏の終わりまではまだ、谷の村の産婆の指に入っていた。いまはどこにも無い。無くしたのはこちらで、無くしたと言えるのも、この世でこちらだけになる。


 自分の熱は、どのみち自分では治せない。だからこれは、自業自得という形にすらならない。こちらが消したせいで、この土間では、誰か他人ができるはずだったことができずにいる。


 この家の者は、不思議がってすらいない。熱は待つものだ、と思っている土地だからだ。もともと持っていなかったものを取り上げられた家は、取り上げられた顔をしない。


 こういう家が、どれくらいあるのだろう。術で回っていた町の損は、あとから請求書になって届く。もともと術の無い土地は、請求書すら来ない。来ないぶん、こちらは何を壊したのかを、いつまでも見ないで済む。


 昼と夜の区別が、途中から曖昧になった。


 声は聞こえていた。水を張った盥の底から聞こえるみたいに、遅れて、輪郭だけ届く。誰かが薪を割っている音。鶏の声。戸の開け閉て。


 その中に、トトの声が混じっていた。


 外だ。庭か、その先の道か。この家の子か、近所の子か、相手は分からない。ただ、あの子の教えるときの喋り方は、一度聞けば分かる。区切って、待って、次を出す。


「はい。言ってごらん」


 やめろ、と言おうとした。声は出なかった。出たとしても、あの子には届かない距離だった。


 決めてあったはずだ。あの子が唱えだしたら、目についたものを片端から勘定して、耳をそっちへ向けておく。そういう決まりを、自分で作った。


 熱の中では、勘定が続かない。三つか四つで、どこまで行ったのか落としてしまう。落とすたびに、また一つ目へ戻る。戻っているうちに、外の声のほうは先へ行ってしまう。


 名前が入ってきた。


 一つではない。いくつ入ったかは、勘定していないので出てこない。


 入るときに痛みは無い。音がするでもない。あとから探ると、ちゃんとそこに在る。物が棚に増えるのと同じで、増えた瞬間を見ている者はいない。


 外の声は、昼のあいだずっと続いていたわけではない。途切れて、また始まって、また途切れる。途切れているうちに眠って、始まると目が開く。開いたときには、もう半分は入っている。


 夜のどこかで、自分の指が動いた。


 布団の中で、組もうとする形になりかけ、半分で止まっている。止めたのはこちらではない。指が途中で力を落としただけだ。熱がそれをやってくれた。


 それが、この三日でいちばん危なかったところだと思う。


 三日目の朝に、熱が下がった。


 理由は無い。薬も飲んでいないし、手当と呼べるものも受けていない。布を替えてもらって、白湯をもらって、掛けるものが一枚増えただけだ。待って、治る側にいた。それだけのことだった。


 治らない側の人も、同じ家で同じ手当を受けて死ぬ。去年の八日の人は、たまたまこちら側だった。そういう並びのどこかに、わたしも入っていた。それだけのことだ。


 起き上がると、部屋の物の位置が三日ぶんずれていた。椀の置き場が変わり、土間の隅に薪が積み上がっている。割り方の揃っていない薪だった。


「起きられるかい」


「起きられる。歩くのは、まだ怪しいね」


「三日だもの。無理しなさんな。走るのは、ひと月は無理だよ」


「走る用なんか無いよ。走れた時期もそんなに無い」


「そういうのに限って、あるんだ」


 嫁は椀を下げて、鶏の囲いのほうへ歩いていった。看病が済んだので、次の仕事に移っただけの動き方だった。礼を言う間も、言わせる間も無い。


 トトが入ってきて、こちらの顔を覗き込んだ。


「起きた? あのさ、ここの子、四つ覚えたよ。四つだよ」


「そうかい」


「三日で四つだから、すごくない? おれ、教え方うまくなってきた」


「うん。えらいもんだ」


「おばさん、返事が短い。まだ痛いの。水いる?」


「痛くはない。薄いだけだ」


「顔が薄いよ、ほんとに。もうちょっと寝てれば」


 この子は名前を配って回っていた。回りながら、こちらの布も替えていたのだと、あとになって聞いた。両方をやった三日だった。片方だけを見て、この子を叱る言い方は無い。


 戸の外へ出た。


 日は高くて、風はもう冷たくなかった。道の向こうの畑に、緑が薄く乗っている。


 三日で芽の出るものらしい。二十六年このへんを歩いてきて、一度も見ていなかった。

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