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しまい手 ―― わたしが使った魔法は、世界から消える  作者: モリタ・ハク


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第25話「おれ、教えるの上手いと思う」

その晩は、納屋ではなく家の中に寝かせてもらった。


 板の間の端に、藁を薄く敷いて、その上に麻の布を一枚。洗って伏せた皿の裏みたいに冷たい板だったが、屋根の下で、風の入る向きに背を向けて寝られる。冬のあいだ納屋で寝ていた体には、それだけで作りが違う。


 麦の蒔きつけが近いので、この家は人手を欲しがっていた。畝を起こす仕事が三日ぶん残っていて、賃は寝床と、朝晩の飯と、出るときに麦を少し。銭は出ない。銭を出す家ではないというより、この時季に銭の出せる家が街道沿いには無い。


 泊めるほうも、泊まるほうも、勘定は先に済ませておく。そうしておくと、あとで気まずくならない。この土地の親切は、たいていこの形をしている。


 こちらは鍬を持てない。持てないので、種を選り分ける側に回った。悪い粒と石を取り除く仕事で、座ってできる。左でやれば、指は間に合う。


 良い粒と悪い粒は、見ただけでは分かれない。指の腹で押して、返ってくるものを残す。返ってこないのは中が空だ。半日やっていると、目を落とさずに選り分けられるようになる。頭より指のほうが先に覚える種類の仕事だ。いまのこちらには、その言い回しが少し具合悪い。


 トトは畝のほうへ行った。半日で腰を伸ばす回数が増えて、昼を過ぎたころには、この家の子供と一緒に水を運ぶ係に替えられていた。子供は二人いて、上が十くらい、下はもっと小さい。


 トトが子供と喋る声は、畑のどこにいても届いた。口を動かしながら歩く癖のある子なので、声のする場所が一つに決まらない。


 夕方、井戸端でこの子の声がした。


「〈風待ちの手〉。はい、言ってみて」


「かぜまちの、て」


「そう。〈鉋起こしの手〉。これは木のやつ」


「かんな……なんだっけ」


「〈鉋起こしの手〉。もう一回」


「かんなおこしの、て」


「そう。いま三つめ。一日三つなら、ひと月で九十だよ」


「おれも。おれもやる」


「下のは、まだ早いって。手ぇ洗ってきな」


 種を選り分ける手を止めた。止めてから、また動かした。


 この子は教えていた。順番に、区切って、相手が言い終わるのを待ってから次を出す。教え方としては丁寧なほうだ。自分がそうやって二年かけて覚えてきたからだろう。


 覚えたところで、この子供らの手が動きだす道理は無い。名前を知るのと手が動くのは、まるきり別の話だ。名前は味噌のようなもので、仕込んでおけば勝手に増えるというものではない。使うほうには年季が要る。年季のかけられる土地には術士がいて、いない土地の子は、名前を覚えても名前で終わる。


 だから、この子の教えていることは、誰の得にもつながらない。


 つながらないというところが、この話でいちばん始末に困る。


 名前を聞いただけで撃てる人間は、この世に一人きりだ。その一人が、井戸から十歩の日なたで、麦の悪い粒をよけて座っている。


「おばさん、見てた?」


 夜、板の間でこの子が言った。声が上ずっている。


「見てはいない。声だけ聞こえてた」


「上の子、三つ覚えたよ。一回で言えたのが一つ。おれ、教えるの上手いと思う」


「そうかい。たいしたもんだね」


「明日、もっとやる。あの子、覚えるの好きだって。下の子も混ざりたがってる」


 好きだ、というのは本当だろう。覚えるのが好きな子は、どこの土地にもいる。この子がそうだったように。覚えることの何が面白いのかと聞かれても、好きな側は答えられない。答えられないから続く。


 ただ、この子が二年かけて詰め込んだものには、使う先があった。隣に、聞けば撃てる人間がいたからだ。あの子供らにその先は無い。無い先へ向けて渡していて、渡したほうが嬉しがっている。


 嬉しがっているのを止めるには、言葉が一つ要る。手持ちを並べてみた。


 一つ目。役に立たないからやめろ、と言う。そう言った先には、名前ばかり詰め込んできた二年ぶんの子が立っている。その二年も、同じ一言で片づくことになる。


 二つ目。こっちの耳に入ると困るからやめろ、と言う。そう言えば、なぜ困るのかを続けて言わされる。続けたら、自分の頭に詰まっていたものの正体を、この子はその場で知る。


 どちらの戸も、押せばあっさり開く。開いたあとで閉める手のほうが、もう世に無い。


「やりすぎるなよ」


「なんで」


「親が嫌がる。人の家だからね」


 これは嘘ではなかった。実際、翌日の昼に、母親のほうが井戸端へ出てきた。


「あんたら、何やってんの」


「術の名前。教えてる」


「うちの子に、そんなもの覚えさせてどうするんだい」


 母親は怒ってはいなかった。怒るほどのことだと思っていない声だ。麦の袋の口を縛りながら、ついでに言っている。


「覚えといたら、そのうち出るかもしれないし」


「ならないよ。うちの人も昔いくつか覚えてたけど、一つも出やしない。覚えたぶんだけ、忘れる場所が要るだけさ」


「あんたの連れだろ、あの子は」


「連れだね。手はかからないよ」


「よく喋る。うちのが喜んでるから、まあいいけどさ」


 上の子は、その横で、もう別の遊びに移っていた。石を並べて、並べ替えて、また崩している。


 子供の頭は餅を焼く網と同じで、乗せたものが全部は残らない。三つ覚えたうちの二つは、たぶん昨日のうちに落ちている。落ちたのを本人が知らないので、惜しむ者もどこにもいない。


 トトは少しだけしぼんで、水を運ぶ係に戻った。夕方には元に戻っている。この子のしぼみ方はいつも浅い。浅いのは、まだ本気で何かを失くした覚えが無いせいだろう。そう見ているこちらの側からすると、いちばん大きいのは去年の冬に失くしている。


 その夜、寝る前に、この子は節を唱えた。久しぶりだった。トゥーリでは唱えない晩が続いていたので、いつからやめていたのかも分からない。


 人に教えたぶんを、自分でも確かめたくなったらしい。声は小さく、板の間の天井のほうへ向けて、一つずつ。


 知っている名前は、右から左へ抜ける。すでにこちらの側にあるものは、何度聞かされても増えも減りもしない。


 三つ目のあたりで、聞いたことのない名前が一つ出た。


 節はそこで詰まらなかった。この子にとっては並びの一つで、前の名前と後ろの名前のあいだに、同じ間隔で置かれていただけだ。


 短い名前だった。それだけだ。何をする手なのかも分からないし、この子がどこで拾ったのかも知らない。


 入ってきて、置かれた。


 追い出そうとしても、追い出す先が無い。こちらの頭は、入ったものを外へ返す作りになっていない。


 板の間の向こうで、この家の者が寝返りを打った。積んである麦の袋のほうから、粒の寄る音がする。明日も畝を起こして、明後日には蒔く家の音だ。


 この子は唱え終わって、すぐ寝た。寝入りばなに一度、足で布を蹴った。


 明日から、この子が唱えているあいだ、わたしは数を数えることにした。


 板の節でも、屋根の桟でも、なんでもいい。数えているあいだは、耳が別のほうを向く。


 数えるのは、好きではない。

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