第24話「上のほうに、歩いて渡れるとこがある」
渡し賃は、水の高さのぶんだけ上がっていた。
平のときは一人銅貨一枚、増えたときは三枚。書いてあるのではなく、渡し守がそう言うだけだ。値の決め方に文句を言う者はいない。舟を出すのはこの人で、沈むときに沈むのもこの人だからだ。
川は濁っていた。縁まで注いだ椀と同じで、静かなほうが危ない。向こう岸の木が、根の半分まで水に入っている。上のほうから枝が流れてきて、瀬のところで一度止まり、また回って下りていった。枝の止まった場所を覚えておけば、水がどれだけ動いたかが知れる。次に来た枝は、もっと下まで持っていかれた。
渡し場の小屋には、先に来た者が詰まっていた。座れる者が板に座り、あとは立って待つ。座っている者は詰めない。詰めれば一人ぶん増えるのに、誰も動かない。先に来た者の権利というのは、どこの土地でもだいたい足の下の広さで決まる。雨は屋根の合わせ目から、茶を漉すみたいに細くなって落ちてくる。落ちる場所が動かないので、人はそこだけ避けて立つ。
みんな、水の落ちるのを待っている。渡し守は昼前に一度出て、戻ってきて、それきり舟を上げてしまった。上げた舟は、逆さにして土手に置いてある。置き方を見れば、今日はもう出さないと知れる。知れていても、人は小屋から出ていかない。
「明日だ。今日はやらん。水を見てから言ってる」
そう言って、板の間の端で煙管を出した。何度も言い慣れた言い方だ。言い慣れた言い方をする人間は、日が暮れるまでに気を変えることがある。言い慣れているぶん、口から出るのが軽い。
こちらは荷を下ろさずに、両手で抱えて立っていた。壁に寄りかかれば楽だが、寄りかかると片手が余る。余った手は、勝手に用事を探す。
右手を、左手で握っていた。握っていれば、少なくとも形にはならない。三本しか動かない手でも、動く三本があれば足りてしまう。井戸のときがそうだった。
これを人に伝える言い方を、こちらは知らない。知っていたとしても、伝える相手がこの小屋にはいない。
トトのほうは板に座っていた。小屋へ入って三つ数えるうちに座る場所を見つける子だ。そこだけは昔から抜け目がない。
隣に座った男が、荷の紐を直しながらこの子に話しかけた。継ぎ場から一緒だった男で、荷を運ぶのが仕事らしい。
「坊主、さっき何か唱えてたろ。あれ何だ」
「術の名前。おれ、全部覚えてるんだ。歌にしてある」
「全部かよ。言ってみろ。合ってるかどうかは、こっちには分からんがな」
「どういうのがいい」
「そうさな。火を点けるやつ」
トトは一度、天井のほうへ目をやった。そのあと、干した魚を一枚ずつ剥がすような手つきで、名前を一つずつ離して出した。
「〈灰寄せの手〉。あと〈風待ちの手〉。えっと、〈鉋起こしの手〉」
「なんだそりゃ。火はどこ行った」
「だから火のだよ。灰を寄せるんだから」
男が笑って、隣の女も笑った。この子は笑われたことのほうを受け取って、得意そうにもう一つ足した。足したのも、火のではなかった。小屋の隅から別の男が「坊主、もう一回」と言い、この子はまた天井を見た。人に何かを頼まれるのが、この子はまだ珍しい。
注文は火だった。出てきた品物のどれにも、火は混じっていなかった。本人は間違えたと思っていないし、聞いた側も、正しい品物を知らないので気づかない。
この小屋で、注文と品物の食い違いが見えているのは、こちらだけだった。
世間が毎日使う六つは、これで全部わたしの手を通った。錠を掛ける手も、火を落とす手も、灯りを保つ手も、骨を継ぐ手も、火を熾す手も、水を上げる手も。この子の頭にあるのは、年に一度使うかどうかの名前ばかりだ。それでも数だけはたっぷりある。
たっぷりあるというのが、いまはいちばん具合が悪い。
立つ場所を、板の間から戸口のほうへ寄せた。
話は、そのあいだに別のところで熱くなっていた。対岸へ渡りたい一行がいる。三人で、一人は歳を取っていて、荷が布でくるんであった。
「明日じゃ間に合わないんだ。頼むよ」
「間に合わんのは、あんたの都合だろう」
「銭は出す。倍でいい。足りないなら言ってくれ」
「倍もらって沈んだら、あんた、返してくれるのかい」
渡し守は腰を上げなかった。上げないまま、言われるたびに煙管を打つ間が短くなっていく。人は同じことを三度頼まれると、四度目のあたりで折れる。折れる前の音が、もう出ていた。
舟が出れば、こちらはここから見ることになる。
川の上で舟が返ったとき、この目に何が映って、そのあいだに手が何をするかは、もう当てにならない。井戸のときは選んでいない。選ぶところを一つも通らずに終わっていた。あのときの手つきは、たどり直しても、はじめの一手だけが抜け落ちている。
抜けているものは、二度目も抜ける。
荷を抱え直して、トトのところへ行った。
「行くよ」
「え、どこ。舟、出ないんでしょ。明日って言ってたよ」
「上のほうに、歩いて渡れるとこがある。渡し守が朝に言ってた」
「半日かかるって、あの人言ってたよ。雨だよ。待てばいいじゃん」
「待たない」
トトは何か言いかけ、言わずに荷を背負った。理由を三つ並べて聞かれる覚悟をしていたのに、一つも来ない。冬をひとつ越した子は、そのぶんだけ聞かなくなるものらしい。
小屋を出た。出しなに、渡し守がこちらへ目をやった。目をやっただけで、口は開かない。この人からすれば、客が一人減った話でしかない。
道は川に沿って上っていく。上るほど川幅は狭くなり、流れは速くなり、そのかわりに底が見えてくる。歩いて渡れる場所とは、そういうところを指す。危なくないから歩けるわけではない。危ないぶんの形が、目に見えているだけだ。
雨は降りつづけた。半日、ずっと濡れていた。濡れた荷は重くなるし、重い荷を抱えていれば手はふさがる。上り道は歩きにくく、肋のほうは十歩に一度ずつ文句を言った。文句は聞かなかったことにした。ふさいでおきたくて抱えているのだと知れたのは、だいぶ上がってからだ。
浅瀬は思ったより浅くて、膝の上までも来なかった。石が滑るので、トトが先に渡り、こちらは棒で底を探りながら渡った。棒は右手では持てないので、左に持って、右は空けておいた。空いた右手は、渡りきるまで何もしなかった。
向こう岸で、二人とも座り込んだ。座ってから、この子が濡れた荷を上下に積み直した。濡れているのを上にする、というのを、あの宿で覚えて帰っている。
何ひとつ起きなかった。当たり前だ。起きない場所を選んで来たのだから。
翌日、対岸の道で、昨日の荷運びの男に追いつかれた。
「あんた、上を回ったのかい。ご苦労なこった。半日だろ、あれ」
「舟は出たのかい」
「出たよ。夕方に水が落ちてな。歳取ったのが一人、乗り降りで足を滑らせたが、それだけだ。誰も落ちちゃいない」
舟は出た。誰も落ちていない。半日、わたしは雨の中を上流へ歩いた。
この三つのあいだに、つながりは一つも無い。




