第23話「水が湧いたんだ、春だからな」
朝から雨だった。
春のはじめの雨は、降る量より、やむ気配の無さのほうが効く。屋根のある場所から出る理由が、だんだん見つからなくなる。それでも街道の便は動くので、こちらも動いた。宿の女将は、出るときに何ひとつ言わずにいた。ゆうべの申し出は、返事が無かったぶん、無かったことになったらしい。そういう仕舞い方のできる人だった。
継ぎ場から半日の、次の土地に着いた。家は十いくつで、真ん中に井戸が一つある。井戸のほうが先にあって、そのまわりへ家が寄っていった並び方だ。
井戸は深かった。覗くと、水面は見えず、雨粒が落ちていく音だけが遅れて返ってくる。綱は太くて、巻き上げる枠に泥が乗っている。前の晩に女将が言ったとおり、ここのは継ぎ場のより倍は長い。
桶は一つきりしか下がっていない。もう一本の綱は先が空で、端だけが枠に縛ってある。冬に落としたやつを、そのまま放ってあるのだろう。
井戸のまわりの土は、踏み固めてあるぶん、雨が乗ると滑る。板が敷いてあるが、敷いてあるのは片側だけで、反対側は泥のままだった。誰かが順に敷き足していって、片側まで来たところで手が止まった形だ。
水を分けてもらうつもりで近づいた。汲んでいたのは年寄りの女で、こちらを見て、顎で桶を指した。使っていい、という意味らしい。口をきくのが面倒なだけで、断られてはいない。
「これ、もらっていいのかい」
「汲めるならね」
「重いのかい、これ」
「重いよ。だから若いのが汲む。あたしは半分しか入れない。半分でも、腰に来る日は来る」
この人は井戸の深さを腰で覚えている。深いか浅いかを、綱の長さでなく、翌日の体で数えてきた土地だ。
子供が走ってきたのは、綱を握ったときだった。
三つか四つの子で、追いかけているのか追いかけられているのか、笑いながら井戸の板の上を回った。板の端から泥へ出て、そこで足が横へ滑った。
滑ってから先、どこにも引っかからなかった。井戸の口は低い。腰までも無い。
落ちた音は、思うより小さい。
年寄りの女が声を上げた。上げてから、綱に手をかけて、それから手を離した。この人にはこの先が無い。桶を下ろしたところで、桶は子を掬わない。
人が走ってきた。男が二人。一人は枠に取りつき、一人は口から覗き込んだ。覗いて、腹ばいになり、腕を伸ばす。伸ばしてみて、届く深さではないと知れて、顔を上げた。
「綱だ。落ちてるほうの綱、引き上げろ」
「引き上げてどうする。桶に乗る年じゃねえぞ、あの子は」
「じゃあ誰か下りるか。下りて、どうやって上がる」
返事は無かった。答えの出ない問いを、三度ずつ言い直しているだけだ。
「梯子だ。梯子はどこだ」
「あるのか、この深さの」
落ちた綱を引く話が出て、もう一本を下ろす話が出た。どちらも、着いてからやることだ。着くまでに人が何度息をできるかを、口に出した者は一人もいない。
井戸の中は見ていない。
こちらは覗いてすらいない。名前を声にした覚えも無い。ゆうべ継ぎ場の土間で、あの術なら綱は要らない、ただしここでは要る場面が無い、と自分の中で片づけた。片づけたときの言い方が、口の裏にそのまま残っていた。
右手を出して、動く三本でかたちを作っていた。
やると決めた覚えは無い。決めるところを通らずに、手のほうが先に済ませていた。済ませたと気づいたのは、井戸の中が明るんでからだった。
水のほうが、せり上がってきた。
甕から甕へ移すみたいに、まっすぐ、こぼれずに上がってきた。井戸の口から溢れて、板の上を流れて、泥の側へ落ちた。流れの真ん中に、子が浮いて出てきた。
男の一人が反射で腕を出して、襟のところをつかんだ。つかんで、引いて、板の上へ転がした。子は水を吐いて、そのあとで泣いた。泣いたので、みんな息をついた。
水はそこで止まった。井戸の中では、水面が元の高さまで下りていく。下りきると、あとはいつもの深さの井戸だった。
これで、井戸から水を上げる手というものが、どこの誰の指からも落ちた。
この村では、何ひとつ変わらない。綱で汲む土地で、昔から綱で汲んできた。枠も桶も、明日も同じように回る。損はここには出ない。出るとすれば、水を術で上げていた町のほうだ。どこの何という町なのかは分からないし、たぶん一生分からない。
これまでは、消した現場に立っていた。錠の開く音を聞き、煙が上がるのを見て、坂の上で戸の止まる音が来ないのを待った。今日は、目に映るものが何も無い。無いというだけで、向こうにはちゃんと届く。
村の者が集まってきた。灰汁が一か所へ寄るみたいに、集まる先は決まっている。子の母親らしい女が、泥の上に膝をついて、着ているものを脱がせはじめた。
「水が湧いたんだ。春だからな」
枠に取りついていた男が、誰にともなく言った。言い方に迷いが無い。
「湧くもんかね。こんな古い井戸で」
「湧くさ。雪の溶けたぶんが下でつかえて、行き場をなくして押し上げる。去年も向こうの沢でやっただろ」
「ああ、あれか。あれは驚いたな」
「同じことよ。運がよかっただけだ」
運。その言葉が出たところで、誰もそれ以上さかのぼらなくなった。運という言葉には、後ろが無い。
そこで話が決まった。決まってしまうと、全員が子のほうへ戻っていく。
こちらは水の流れた跡を見ていた。板の上の泥が、流れた形のまま筋になっている。日が出れば乾いて消える筋だ。消えてしまえば、今日ここで何が起きたかを指せるものは、村に一つも残らない。
年寄りの女が、こちらの横に立った。桶を持ったままで、まだ一度も水を入れていない。
「あんた、そこにいたね」
「いたよ」
この人は何か言いかけて、こちらの手を見た。泥と、水の跳ねた跡がついている。
「手ぇ、洗いな。泥だらけだ」
いちばん近くに立っていた人が、いちばん近くまで来て、言えたのがそれだった。言いかけたほうは、どこへも行かないまま消えた。
トトが人の後ろから出てきた。荷を両方背負ったままで、息が上がっている。
「何。なんかあった? 子供、落ちたの? 井戸って、あれ?」
「落ちた。それで、上がった」
「上がったの。よかった。どうやって上げたの」
「男の人が引き上げた」
「ふうん。じゃあ間に合ったんだ。おれ、荷を置いてから来ればよかったな」
「置いてきてたら、もっと遅かったろ」
「そっか。走るの、荷があるほうが速いんだよ。振られないから」
この子はそれで済ませて、荷を下ろした。見ていなかった者には、これで全部合っている。合っていないところは一つも無い。
母親が顔を上げて、あたりを見回した。礼を言う相手を探す目つきだ。
探して、子の襟をつかんだ男のところで目が据わった。男は手を振って、それから照れて、もう一度手を振った。
それでかまわない。あの手が子を引き上げたのは、間違いのないことだ。




