第20話「濡れてると、火打ち石じゃ点かないんだ」
三日、雪が降りつづいた。
二日目の昼に北へ行く道が埋まって、三日目の朝には、坂の段のあいだの石が雪の下へ入った。町のほうは動いている。人が出て雪を掻いて、掻いたそばから積もった上をまた歩く。掻いた雪は道の端で山になって、笊に盛ったみたいに、上から順に崩れた。
冬の町は忙しい。忙しいので、わたしを見て向きを変える人も、その動作をだんだん短く済ませる。憎むのにも手間がかかる。手間のかかることは、雪の日には後回しになる。
先に尽きたのは薪だった。
竈は落とせないから、どの家も朝から晩まで焚いている。焚きっぱなしの竈は、薪を食う量が違う。秋のうちに積んだぶんは、三日目の夕方で底が見えた。
「おばさん、堰のとこに流れ木がある。誰も取ってないんだ」
「濡れてるだろ。堰の水に足を入れることになる」
「濡れてるけど、割れば中は乾いてる。あそこのは太いから、太いのは長く保つよ。行っていい? 斧、借りてっていい?」
「一つにしな」
「二つしか聞いてない」
この子は腹の布を巻き直して出ていった。日はまだ高かった。堰までは平らな道で、荷を引かずに行けば、往復しても日暮れには間に合う。
夕方に雪がやんだ。やんだので、冷えた。
雪のやんだあとの町は音が減る。鐘つき番が上がっていく足音がして、しばらくして鐘が鳴った。夜のぶんの鐘だ。この町は、錠の代わりに音を置いている。
鐘のあとも、この子は戻らなかった。
棒を一本持って、外へ出た。平らな道なら歩ける。息は、いつもの数では足りなかった。雪の上は平らではないからだ。踏むたびに深さが違うので、力を入れる場所を一歩ごとに決め直すことになる。
堰の手前の曲がりで、道の端に座っているのを見つけた。呼んだら顔を上げたので、そこまでは間に合っていた。
脛まで濡れていた。流れ木は三本、紐でくくって足元に置いてある。取るときに足を入れたのだろう。入れたあとで歩いて帰るぶんを、この子は勘定していない。十二だから抜ける。
「おばさん」
「立て。ここで寝たら終わりだ」
「立ってるつもりなんだけど」
「木は」
「取れた。三本。太いやつ。紐も切れてない」
肩を貸したが、こちらの右手は二本動かない。左で襟をつかんで、引いた。引いて、三歩で二人とも倒れた。
起き上がるのに、しばらくかかった。雪は下のほうが硬くて、肘を置くと痛い。痛いのはまだいい。痛みが遠くなってきたら、そこからが早い。
夏の終わりに折れた肋は、まだ息の深さを決めている。半分の息しか入らない体で、濡れた十二歳を引いて、納屋まで戻る。計算はしなかった。計算すると、やらない側に答えが出る。
納屋の戸を肩で押して、藁の上に転がした。転がしてから、自分も膝をついたまま動けなくなった。
しばらく、そのままでいた。戸は開けたままだった。雪あかりが入ってきて、床の同じところだけを白くしていた。
まずいと思ったのは、寒さが遠のいたときだ。体のどこかが、もう頑張らなくていいと決めたらしい。決めた側にわたしの席は無い。
「火打ち石」
「持ってる。腰んとこ」
布の袋から出させた。火口も入っていた。藁を集めて、打った。火花は出た。何度でも出た。
火口が湿っていた。研いだあとの米みたいに、押すと指の跡が残る。焦げる匂いだけ立って、その先へ行かない。
この子の指は、握っても形が戻らなかった。洗い張りの前の布と同じで、伸ばしたところで、そこにいてくれない。
「おばさん、やるよ。おれ、やる」
「いい。座ってな」
「濡れてると、火打ち石じゃ点かないんだ。濡れてても点くやつがあるんだよ。〈三つ熾しの手〉。おれ、それなら」
名前のほうは、ちゃんと出た。そのあと指を組もうとして、三度やって、三度とも形にならなかった。手のほうが動かないのだから、上手いも下手もない。
右手の手袋を外した。入れ口が一つきりの形なので、はめたままでは、この手は術のかたちを作れない。外せば、二本ぶんの不自由が外に出る。隠しておきたいものを出す場面が、結局この夜に来た。
〈三つ熾しの手〉が、いまもこの世にあるとは限らない。人に聞いて確かめる道は無い。数えずに来たせいで、消したものは名前の順に並べられるだけだ。抜けがないとは、自分でも言いきれない。
在れば、点く。無ければ、何も起きない。そのときは、朝までにこの子が死ぬ。
動く三本で、かたちを作った。
火が立った。
その火は、音を立てなかった。薪の割れる音も、油の跳ねるような音もしない。術の火は、燃えているのに静かだ。静かなまま藁を食って、くくった流れ木の、太いほうから赤くなった。
これでこの世に、火を熾す手は無い。
濡れていても点く手も、乾いていれば必ず点く手も、どちらも同じ一つだった。それを、いまわたしが使った。
手袋を、この子の右手にはめてやった。入れ口が一つきりだから、中で指が何本利いているかは、誰にも見えない。
「あったかい」
「そりゃよかった。編んだ人には黙っといてやる」
「おばさんの手も、はめる?」
「わたしのは、もともと冷たい。触っても得はない」
この子は火のほうへ体を向けて、そのまま寝た。取り返しにいくような寝方だった。今夜のぶんではなく、もっと前からの寝足りないぶんを、いっぺんに。
朝、雪が照り返して、納屋の中まで明るかった。この子は生きていて、口を開けて寝ていた。
戸の板が叩かれた。女の人が立っていて、厚い外套の肩に、焼き印のある木札を下げている。術士の連中が使うやつだ。
「冬のあいだ、町に一人置くことになりまして。挨拶に回っています」
「そう。ご苦労なことだね」
「灯りと、火のことです。この町は、この冬ずいぶん出遅れているようなので」
その人は納屋の中を眺めてから、手を、灰になった火のほうへやった。指を組むかたちに入って、入った途中で止まって、止まったことに自分で少し笑った。
「あら。何をしようとしたんだか」
その手つきには覚えがある。無いものを取りに行った手だ。行った先に何が置いてあったかは、この人にはたぶん出てこない。
「ところで、あなたは。旅の方ですか。いつまでこの町に」
「長くはいない。たぶん」
女の人は帯から木札を一枚抜いて、戸の脇の梁に置いた。印が焼いてあるだけで、字は書いていない。梁の上で少しだけ滑って、止まった。
「困ったら、これを持って。門のところで見せれば通ります」
木札はそのままにしておいた。その人はこちらが取るかどうかを当てにしていないらしく、坂を上がっていった。上がれる者は、上がる。
トトが起きて、朝の火を熾しにかかった。ゆうべの火は、夜のうちに消えている。
この子は火打ち石と火口を出して、日の当たる場所で乾かしてから打った。二度で点いた。点いてから手に息を吹きかけて、道具をしまった。
術を試さなかった。
試して駄目だった、ではない。試してみよう、の手前が動かない。そこに何かがあったという覚えごと無くなると、人は取りに行かなくなる。ゆうべ自分が口にした名前も、この子からはもう抜けている。
「おばさん、腹へった」
「そうだね」
火のそばに寄って、手をかざした。
朝の火は、焦げた匂いがした。ゆうべ、わたしが点けた火には、しなかった匂いだ。




