第19話「聞こえてる。けど、なんて言ったかは分かんない」
声を出したのは、四日ぶりだった。
トトが留守のあいだ、こちらから喋る相手がいなかった。錠前屋の主人は腕を焼いてから店の奥にいるし、水汲みの女たちは、わたしを見ると桶を持ち替えて向きを変える。
四日ぶりの声は、自分で思っていたより低い。喉のほうが、使わない日数のぶんだけ縮む。
四日ぶんの静けさは、思ったほど嫌ではなかった。人と喋らないと、余計なことを言わずに済む。余計なことを言わずに済むあいだは、誰も損をしない。
この子は昼前に戻ってきた。荷車の人に乗せてもらって、橋の手前で降ろされたらしい。腹の布は、出ていったときと同じ厚みで巻いてあった。
「会えた」
「そうか」
「会えたけど、あの人、去年のは自分じゃないって」
トトは藁の上に座って、膝を抱えた。抱えてから、布をほどいて、銅貨を出して並べはじめた。
「猟師の脚、うちじゃないって言うんだ。うちに来たのは冬のはじめで、そのときはもう歩いてたって」
「その人、なんて呼ばれてた」
「先生って。あと、爺さん」
「名前は」
「聞いたけど、覚えてない。名前より、道の順のほうを覚えた」
「じゃあ、誰が治したんだろうね」
「さあ。でも、あの人は腕がいいんだ。三人くらい、診てもらった人がいた」
「診てもらって、どうなった」
「よくなった人もいる。ならなかった人もいる。半分くらいって」
半分くらい。それは治すこととは別のことだ。布を巻いて、寝かせて、体のほうが直るのを待つ。待って直る人が半分いて、残りの半分は待っただけで終わる。
治す手があったころは、待たなくてよかった。半分ではなく、全部だった。
「ねえ。聞いてる?」
「聞いてる」
「あの人、たぶん言いたくないだけだと思う。自慢しない人っているじゃん。北の村のほう、次に行ってみる」
この子は、噂の出どころが一つ消えたことを、別の場所へ移して埋めた。埋め方が上手い。上手いのは、そうしないと歩けないからだ。
道の順は覚えて、名前は忘れる。この子の頭は、そういうふうに使われてきた。術の名前だけは全部入っているのに、人の名前のほうは引っかからない。
藁の隅の包みを取って、結びをほどいた。ザンドが置いていったやつだ。
中身は手袋だった。指を分けていない、袋の形のものだ。編み目が詰まっていて、端の始末が丁寧だった。長く寝ていた子の手でも、これは編める。
右手にはめた。中の二本はあいかわらず動かないが、外から見れば、動く手と同じ形になる。袋の形なので、指が何本使えるかは布の外に出ない。編んだ子は、そこまで考えて選んだのかもしれない。
はめてみたのは、寒いからではない。手の形をふつうに見せておきたい場面が、今日この先にあると思ったからだ。思ってから、なぜそう思ったのかを自分で追いかけて、追いつく前に立ち上がっていた。
その日は市の日だった。市の日は、坂の下だけが混む。上の段の人は下りてきて、下の者は店を出したまま動かない。人が集まる場所と、集まる時刻が決まっている町だ。
坂の下の広場は、冬でも人が出る。冬に出るのは、預ける物と、貸し借りの話があるからだ。焼けた店の預かり物の件では、揉め事がまだ続いている。
広場の端まで歩いて、荷車の轅に腰を掛けた。掛けてから、しばらく息を入れていた。坂を下りるだけで、いまのわたしは半日ぶんの息を使う。使ったぶんは、翌日まで戻ってこない。
ここは夏の終わりに、名を暴かれた場所だ。あのときは、読み上げるほうに理があった。読み上げられたほうにも、言い返す言葉はなかった。
言い返さなかったのではない。言い返すための言葉が、この町からもう無い。
立って、声を出した。
「この町から、四つ無くなってる」
近くにいた三人が顔を上げた。一人は木箱を抱えていて、一人は子供の手を引いていた。
「一つ目は、戸を掛ける手だ。名前は〈締め戻しの開けの手〉。夏の終わりに無くなった」
言った。
声は、思ったより通った。広場は石で囲われているので、端で出した声でも真ん中まで行く。
二つ目も言った。竈の火を落とす手のこと、名前のこと、無くなった日のこと。三つ目は夜の灯りで、三年前だと言った。四つ目は、折れたものと病を継ぐ手で、これも夏の終わりだと言った。
全部、名前で言った。四つとも、正式なほうの名で言った。この世でその名を口にできるのは、たぶんわたしだけだ。
言いながら、これは告白ではないと思っていた。告白なら、聞いた人が怒れる。怒れる形で渡すのが、いちばん楽なやり方だった。
木箱を抱えた人が、口を開けたまま、少し首をかしげた。
「いま、なんて」
「四つ、無くなってる」
「うん、それは聞こえた。そのあと。名前、言ったよね」
「言った」
「聞こえてる。けど、なんて言ったかは分かんない」
その人は耳のあたりに手をやり、笑った。困ったときのやつだ。
「歳かね。近ごろ、聞いたそばから抜けるんだ」
子供の手を引いていた女が、こちらを見ていた。見ながら、子供の手を引き寄せた。引き寄せる動作のほうが早かったので、たぶん名前は聞こえていない。
三人目は、荷を担ぎ直して、もう歩きだしていた。
言い直した。ゆっくり、区切って、口の形が見えるようにした。
「〈締め戻しの開けの手〉」
「うん」
「いま、言えるかい。同じことを」
「……なんだっけ。し、なんとか」
その人は本気で思い出しにかかっていた。かかって、自分の中に足場が無いのに行き当たり、行き当たったことも落とした。
顔がまた、普通に戻った。
「旅の人だろ、あんた。うちの町、いま戸が閉まらなくてね。物騒でさ」
その話なら、この人はいくらでもできる。失われたもの自体の話はできない。失われたあとに起きていることだけが、話せる。
轅に腰を戻した。膝から下は、立っているあいだじゅう震えていた。
届かないだろうとは思っていた。届かない形のほうまでは、考えていなかった。
拒まれるのだと思っていた。嘘をつくな、と言われるか、石を投げられるか、そのどちらかだと。
そうはいかない。この人たちは受け取って、受け取ったものを置く場所が無いので、そのまま落とした。落としたことにも行き当たらない。
わたしが奪ったのは、道具ではなく置き場所だ。
トトが人ごみを抜けて、わたしの前で止まった。
「なんか喋ってたでしょ。聞こえた」
「聞こえたか」
「うん。四つがどうとか。あと、なんか名前」
「言ってみな」
「えっと」
「四つのうち、どれでもいい」
この子は口を開けて、そのままにして、閉じた。開けているあいだ、目だけがこちらを見ていた。何かを取りに行って、棚が空だったときの顔だ。
四つの名前を、この広場で言った。声も出した。順も間違えなかった。
誰の顔にも、何も起こらなかった。




