第18話「この町、また何かありましたか」
朝、納屋の前に足跡が三人ぶんついていた。
一つはトトのだ。夜明け前に出ていったので、いちばん外側で、歩幅が広い。荷車に間に合わせるために走った跡が、橋のほうへ続いている。
残りの二つは、こちらへ来て、戻っていない。まだ中にいるか、まだ外に立っているかのどちらかだ。
外に立っているほうだ。
小さいほうは、片足の運びが浅い。踏み込みきらずに、爪先だけで置いている。長く寝ていた人の歩き方だ。
外の光がひとつ翳って、戸口が半分になった。人が立つと、こうなる。
わたしはそのまま藁の上に座っていた。立って迎えるほどの体でもないし、逃げるにはもう遅い。逃げるつもりなら、足跡を見た時点で戸を閉めていた。ここの戸は閉めたところで用をなさないが、閉めるという動作のほうに、こちらの返事が出る。
出さずに座っているのが、いまのこの体でできる唯一の返事だ。
「先生」
戸の外から声がした。夏の終わりから、この呼ばれ方だけは変わらない。
「入っても」
「戸が閉まらないから、入っても出ても同じだよ」
ヴェイ・ザンドは、外套の雪を払ってから入ってきた。払い方が丁寧で、そのぶん時間がかかる。後ろに、娘が立っていた。
リセは、前に見たときより背が伸びていた。伸びたというより、寝ていたぶんが戻って、背筋が起きたのだろう。
この子はこちらを一度見てから、兄の背中の陰へ寄った。礼を言いに来た顔ではない。かといって、何も無い顔でもない。
「この町、また何かありましたか」
男は座らずに、そう聞いた。この男はいつも疑問形から入る。
「何かって」
「戸が閉まりません。宿でも、店でも。閉めたつもりの戸が、朝には開いている」
「みんな困ってるよ」
「困っている顔をしていません。困る前の顔です。何を失ったのか分からずに、失ったぶんの手当てだけを先に始めています」
この男は、町の顔つきを読む。読んで、原因のほうへは届かない。届かないところで止まる。そういう仕組みらしい。
「古い町だからね」
「先生。ここへ来る途中の村では、閉まりました」
芋の皮を剥く手は、そのまま動かしつづけた。止めれば、それが答えになる。
「三年前に、うちの村で灯りが持たなくなりました」男は外套の裾を膝の上へ置いた。冬に外套の裾を膝へ置くのは、長く座るつもりの人のやり方だ。「それから四年前に、腹を継げる者がいなくなりました。順番が逆なのは、あとから数えたからです」
「数えたのかい」
「数えました。俺の父が死んだ日と、村で最初に人が凍えた日と、この夏ここで錠が開いた日と」
この男には、人の名前を挙げる癖がある。今日はまだ一つも出ていない。名前より先に日付を並べる。これはこちらに悪い。
夏の終わりの広場では、名前のほうが先に来た。日付を並べる人間は、次に地図を見る。地図を見る人間は、線を引いて、線の内側を潰しにかかる。
「人が死ぬと、その人が持っていったものは戻るんですか。先生」
来た。
この問いが来ることは、十日前から分かっていた。分かっていたのに、答えを一つに決めていない。決めないでおけば、その場のいちばん楽なほうへ転ぶ。転んだ先が、たいてい誰かの損になる。
第一に、それは違う。戻る理由は、死とは関係がない。
第二に、それをわたしは証明できる。わたしは生きていて、夏にここで消したものは、この町のどこかへ戻っていた。その戻っていたぶんを、十日前にもう一度使って、また消した。
第三に、それを口に出せば、この男は「死ではないなら何なのか」を聞いてくる。
わたしが答えられるのは、そこまでだ。わけのほうは分からない。分からないと答えれば、この男は自分で探しにかかる。探しはじめた人間が最初にやるのは、条件を一つずつ潰すことだ。
潰す条件の中に、人が入る。
「戻らないよ」
「戻らない」
「戻らない。だから、誰を殺しても無駄だ」
言ってから、半分だけ本当だと思った。戻らない、は嘘だ。誰を殺しても無駄だ、は本当だ。
嘘と本当をひとつの文に入れて渡すのは、二年でうまくなった。うまくなったことのほとんどは、こういうことだ。術のほうは一度も上達していない。上達する必要が無いのだから、増えるのはこの手の技術だけになる。
ヴェイ・ザンドはしばらく黙っていた。そのあとで笑った。笑いながら、目のふちを拭っている。
「よかった」
「よかった、かい」
「はい。俺は、あなたを殺す理由をひとつ持っていました。それが一つ減りました」
「まだあるみたいな言い方だね」
「あります」
「言ってごらん」
男は膝の上で手を組んだ。組んだ手の甲に、ハノでは無かった傷がある。細長くて、刃物ではない道具でついたものだ。あれから、この人も働いている。
「先生は、まだ使うでしょう」
返事をしなかった。
答えられないほうが正しい。十日前に使ったばかりで、あれは人が焼け死ぬのを止めるためだった。同じことがまた起きれば、わたしはまた使う。
「使うたびに、誰かの家から何かが減ります。俺はそれを止めたい。止めるやり方を、俺は一つしか思いつきません」
「殺すことかい」
「はい」
「妹の前で言うことじゃないよ」
リセが、兄の外套の裾を引いた。引き方が慣れている。この娘は、同じ場面を何度も見ている。止める癖のついた子は、止まらなかったときのことも覚えている。
男は立ち上がって、荷から布の包みを出した。膝をついて、藁の上へ置く。
「妹が編みました。手が使えるようになったので」
「本人が来て言えばいい」
「言いません。あれは、礼を言うのを一度で済ませる子です」
包みは開けずにおいた。開ければ、中身がわたしのために編まれたものになる。
「持って帰りな」
「先生」
「わたしは、あんたの妹の手が動くわけを知ってる。あんたのほうは知らずにいる。知らないものを渡されるのは、こっちが困るんだよ」
包みへ目を落とし、次にこちらの手のほうを見た。
動かない二本のことを、この男はまだ知らない。知れば、いくつか繋がってしまう。
わたしは手を膝の下へ入れた。入れてから、これでは隠したことになると気づいた。気づいたが、出さなかった。
二人は出ていった。足跡は、来たときのものの上に重なって、戻る形になる。行きと帰りが同じ道なので、深さだけが二倍になった。
深いほうが先に溶ける。日が当たれば、重なったところから消えていく。
雪は昼前にやんで、午後には溶けた。溶けたところから、また土のにおいがした。足跡は輪郭から先に崩れて、どれが誰の足のものかも分からなくなる。
消えるのは早い。二人が来たことは、夕方には地面のどこにも残らなかった。
夕方になって、リセの手を思い出した。裾を引いた指は、五本とも動いていた。
包みは、藁の上に残った。




