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8、観察処分

 一歩、二歩。


 靴底が垂直な壁を捉えた瞬間、上下の感覚が反転した。

 壁が床になり、今まで立っていた床が底なしの崖へ変わる。

 遥斗は必死に壁を蹴り、天井の扉へ這い上がった。

 指先がドアノブに触れる。


 その瞬間。

 背後で「ドォン!」と、世界が終わるような音が響いた。


 遥斗は扉をくぐり、向こう側へ転がり込む。

 パタン、と扉が閉まった。


 肩で息をしながら顔を上げる。

 暗闇の中、二つの瞳が光っていた。


「……ね、猫。で、出口を、知ってるの?」


 猫は毛繕いの足を止めた。

 瞳孔が縦に細くなる。


「……は?」


 声が、一段低くなった。


「お前、しゃべれたのかよ。てっきり、欠陥品か、脳が焼き切れた置物だと思ってたぜ」


 猫は溜息をつき、遥斗の周りを値踏みするように歩いた。

 長く暴れるヒゲがヒクヒク動く。


「さっきは、借りてきた猫みたいに……いや、俺の方が猫なんだが、とにかく。お前、動く死体ってわけじゃなかったんだな」


「ぼ、僕は……生きてる。ただ、君みたいに……お喋り、じゃ……」


「ひどいもんだ。密猟者どもの翻訳機の方がまだマシだな」


 鼻で笑われ、遥斗はようやく周囲を見回した。

 足元はガラス。

 壁も透明らしい。


 暗闇のはずなのに、青白い光が部屋を照らしている。

 その光を追った遥斗は息を呑んだ。


 巨大な青い球体が浮かんでいた。

 雲をまとい、海を湛えた星。

 理解するまで数秒かかった。


「……え?」


「地球を外から見るのは初めてか?」


 猫は退屈そうに耳を掻く。


「な、なんで……!? こここ、こ、う、宇宙?」


「落ち着け。句読点の位置が変だぞ」


 猫は巨大な青い星を一瞥し、退屈そうに尻尾を揺らした。


「地球なんていくらでもある。翻訳機が勝手に“故郷の星”へ変換してるだけだ」


 遥斗は青い星を見つめた。

 ガラスに映った自分の首に、うっすらした数字が見える。


『0000』


(帰れない)


 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 日向も。

 夏目も。

 田中も。

 みんな帰れない。


 喉の奥から笑いが込み上げる。

 なのに上手く笑えなかった。

 壊れた笛みたいな音だけが漏れる。

 笑っているのに、ガラスに映る顔は泣いていた。


「……ホールには、誰もいなかった」


 声が掠れる。


「みんな、どうなったの?」


 猫は黙っている。


「誰も帰れない……んだよな」


 沈黙。

 青い星だけが静かに光っていた。

 肺の奥で、何かがじりじり焼ける。


「……ねえ」


 沈黙。

 その瞬間、張りつめていた糸が、ぶつりと切れた。


「今さら猫のふりすんなよ!!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。

 するとようやく、猫が遥斗を見た。


「お前、ちゃんと声出せるじゃん」


 猫が笑った気がした。


「観察処分。お前にはそれが下りた」


「……観察?」


「お前は密猟者どものB級トンネル潜った。そのせいで、妙な変異が出てるらしい」


 遥斗は息を呑む。


「……密猟者」


 点と点が繋がった。

 教室が閉鎖された時には、すでに密猟者の手に落ちていた。

 だがロッカー裏の穴に潜った遥斗にはタグ番号がない。


「欠番0000。商品登録に失敗した僕は、見つかり次第廃棄されるはずだった……?」


「ほう」


 猫が感心したように唸る。


「そして君は……」


 遥斗は猫を見つめた。

 密猟者を取り締まり、保護生物を監視する存在。

 だが、それ以上は聞かない方がいい気がした。


「さてな。そっから先ァ、守秘義務ってやつだ」


 猫は尻尾を揺らす。


「で、取締り終わった。ここはもう封鎖。つーわけで、俺はお前を“地球”に帰してやれなくもない」


 地球の光を映した猫の瞳が、妖しく細まる。


「……さて。お前、どうしたい?」


 帰れる。

 その言葉が痛かった。

 誰もいない教室に、自分だけが戻る。


(それは、前より惨めじゃないか)


 脳裏に浮かぶのは、ありふれた放課後だった。


 友達と寄り道して。

 くだらない話で笑って。

 小テストに文句を言う。


 誰かにとっては退屈な毎日。

 自分には一度もなかった日々。


「……帰りたい」


 猫が目を細める。

 遥斗は拳を握った。


「でも、今までと同じじゃ意味がない」


 声が震える。


「僕は、ああいう普通の毎日を、一度でいいから手に入れたい」


 猫は黙って聞いていた。


「五〇点でいい。そのくらいが“観察対象”にはちょうどいいんじゃない?」


 猫は鼻で笑う。


「人間の平凡ってのは、大抵高望みなんだよな」


 呆れたように立ち上がった。


「お前、結構図々しいな」


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