表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/10

6、透明な生徒

 その教室において、内海遥斗は机と同じだった。

 あるいは、古びたカーテンや、使われない掃除用具入れに近い。


 存在はしているが、誰の意識にも触れない。

 いや、正確には「触れたくない不潔な背景」として、クラス全員に共有されていた。


「……あ、ごめん。そこ、ゴミ置いてあった?」


 大河内がわざとらしく飲みかけの紙パックを遥斗の机に置いた。

 中身が溢れ、ノートに茶色の染みを作る。

 周囲から乾いた笑いが漏れた。

 遥斗は何も言わない。


 口を開けば「あ……う」と情けない音が出るだけ。

 それが嘲笑のガソリンになることを、彼は知っていた。

 遥斗はロッカーの裏の小さな穴を見つめていた。


 木材がささくれ、暗闇が覗く、彼だけが知る世界の綻び。

 あそこに入れたら、誰にも見られず、誰のことも見ずに済むのに。


 ふと視線を感じた。

 窓際で談笑していた日向葵と目が合った。

 刹那、彼女の整った眉が微かに歪む。


(……キモい)


 声には出さなかった。

 だがその瞳は雄弁にそう語っていた。

 遥斗の心臓が、泥を啜ったような嫌悪感で跳ねた。


 塾がだるい、スマホの制限がうざい――


 そんな贅沢な愚痴をこぼす資格すら、自分にはない。

 せめて五〇点。

 誰にも迷惑をかけず、誰からも石を投げられない、無色透明な人生。

 それが、どれほど遠いか。


 ◇


 カチ、という乾いた音がした。

 前方で作業員が立ち止まり、懐中電灯のような機器を一人の男の喉にかざした。

 皮膚の下で小さなチップが青く光る。


『個体識別番号:TX-0942。適合率低下。廃棄レーンへ』


 無機質な合成音声。

 照らされたのは、昨日まで遥斗の机にゴミを捨てていた大河内だった。

 威勢の良かった男が、梱包されたまま雑に回収車へ積み上げられる。

 遥斗は柱の影に身を潜めた。


 自分の喉に触れると、何か温かい感触があった。

 作業員がこちらを向く。

 しかしライトは遥斗の体を素通りし、背後の壁を照らしただけだった。

 スキャナーが反応しない存在は、彼らにとって「いない」も同義。


「はは……」


 場違いな笑いが漏れた。

 透明人間。ゴミ。存在価値なし。

 教室で貼られたレッテルが、この地獄で自分を救っている。


 これ以上の皮肉があるだろうか。

 遥斗は息を殺し、柱の影に溶け込んだ。


 その時、廊下の向こうから鋭い金属音が響いた。

 鼓膜を突き刺す咆哮と足音。

 耳をつんざくアラーム音。

 赤いゴーグルを光らせた監視員たちが、怒声を上げて飛び込んできた。


(白いのは作業員、赤いのは監視員か)


 次の瞬間、白い作業員が遥斗を確かに見た。

 警報灯が赤く点滅する。

 空気が引き裂かれるような音。


(目的は僕じゃないよな……?)


 遥斗は冷たいレーンの隙間に体を埋め、息を殺した。

 だが次の瞬間、背後から剛腕が伸びてきた。

 体ごと振り回される。


 そこに立っていた作業員の目が、至近距離で遥斗を捉えた。


 白く濁った眼球が赤く光る。

 腐った果実のような瞳孔。

 赤黒く爛れたまぶたに、皮膚が糸のように張り付いている。

 まばたき一つしない。


(……こいつ、僕を『見て』るんじゃない。『検品』してるんだ)


 生温い死臭の息が、顔にかかった。

 作業員が咆哮を上げた。

 周囲からカチカチと規則的な足音が迫る。


(くそっ、商品になんかされるか!)


 赤いゴーグルの監視員が、タグを握って手を伸ばしてきた。


「――っ!」


 遥斗は反射的に膝を折り、床スレスレまで体を沈めた。

 作業員の指が髪を掠めて空を切る。


 そのまま床を滑り、稼働中のレーンの脚の間へ潜り込んだ。

 金属の冷たさと油の臭いが体を包む。

 背後で怒声が爆ぜる。


 遥斗は這うように立ち上がり、プレス機とパッキング装置の狭い隙間を駆け抜けた。

 普通の人間なら躊躇する幅。

 だが遥斗にとっては、教室の隅と同じ聖域だった。

 心臓が耳の中で鳴る。


 左から影、右からブーツの音。

 金属の端が腕を切り、血がにじむ。

 痛みは後回し。


 レーンの向こうに、一瞬、白銀の横顔が見えた。

 日向葵。

 彼女はもう、逃げられない。


(ランク外で十分だ)


 遥斗は歯を食いしばり、出口へ全力で駆けた。 その時――


「おっと、そこは行き止まり」


 場違いなほど軽快で流暢な日本語。


「垂直に壁を走ったほうがいいぜぇ、未登録くん」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ