6、透明な生徒
その教室において、内海遥斗は机と同じだった。
あるいは、古びたカーテンや、使われない掃除用具入れに近い。
存在はしているが、誰の意識にも触れない。
いや、正確には「触れたくない不潔な背景」として、クラス全員に共有されていた。
「……あ、ごめん。そこ、ゴミ置いてあった?」
大河内がわざとらしく飲みかけの紙パックを遥斗の机に置いた。
中身が溢れ、ノートに茶色の染みを作る。
周囲から乾いた笑いが漏れた。
遥斗は何も言わない。
口を開けば「あ……う」と情けない音が出るだけ。
それが嘲笑のガソリンになることを、彼は知っていた。
遥斗はロッカーの裏の小さな穴を見つめていた。
木材がささくれ、暗闇が覗く、彼だけが知る世界の綻び。
あそこに入れたら、誰にも見られず、誰のことも見ずに済むのに。
ふと視線を感じた。
窓際で談笑していた日向葵と目が合った。
刹那、彼女の整った眉が微かに歪む。
(……キモい)
声には出さなかった。
だがその瞳は雄弁にそう語っていた。
遥斗の心臓が、泥を啜ったような嫌悪感で跳ねた。
塾がだるい、スマホの制限がうざい――
そんな贅沢な愚痴をこぼす資格すら、自分にはない。
せめて五〇点。
誰にも迷惑をかけず、誰からも石を投げられない、無色透明な人生。
それが、どれほど遠いか。
◇
カチ、という乾いた音がした。
前方で作業員が立ち止まり、懐中電灯のような機器を一人の男の喉にかざした。
皮膚の下で小さなチップが青く光る。
『個体識別番号:TX-0942。適合率低下。廃棄レーンへ』
無機質な合成音声。
照らされたのは、昨日まで遥斗の机にゴミを捨てていた大河内だった。
威勢の良かった男が、梱包されたまま雑に回収車へ積み上げられる。
遥斗は柱の影に身を潜めた。
自分の喉に触れると、何か温かい感触があった。
作業員がこちらを向く。
しかしライトは遥斗の体を素通りし、背後の壁を照らしただけだった。
スキャナーが反応しない存在は、彼らにとって「いない」も同義。
「はは……」
場違いな笑いが漏れた。
透明人間。ゴミ。存在価値なし。
教室で貼られたレッテルが、この地獄で自分を救っている。
これ以上の皮肉があるだろうか。
遥斗は息を殺し、柱の影に溶け込んだ。
その時、廊下の向こうから鋭い金属音が響いた。
鼓膜を突き刺す咆哮と足音。
耳をつんざくアラーム音。
赤いゴーグルを光らせた監視員たちが、怒声を上げて飛び込んできた。
(白いのは作業員、赤いのは監視員か)
次の瞬間、白い作業員が遥斗を確かに見た。
警報灯が赤く点滅する。
空気が引き裂かれるような音。
(目的は僕じゃないよな……?)
遥斗は冷たいレーンの隙間に体を埋め、息を殺した。
だが次の瞬間、背後から剛腕が伸びてきた。
体ごと振り回される。
そこに立っていた作業員の目が、至近距離で遥斗を捉えた。
白く濁った眼球が赤く光る。
腐った果実のような瞳孔。
赤黒く爛れたまぶたに、皮膚が糸のように張り付いている。
まばたき一つしない。
(……こいつ、僕を『見て』るんじゃない。『検品』してるんだ)
生温い死臭の息が、顔にかかった。
作業員が咆哮を上げた。
周囲からカチカチと規則的な足音が迫る。
(くそっ、商品になんかされるか!)
赤いゴーグルの監視員が、タグを握って手を伸ばしてきた。
「――っ!」
遥斗は反射的に膝を折り、床スレスレまで体を沈めた。
作業員の指が髪を掠めて空を切る。
そのまま床を滑り、稼働中のレーンの脚の間へ潜り込んだ。
金属の冷たさと油の臭いが体を包む。
背後で怒声が爆ぜる。
遥斗は這うように立ち上がり、プレス機とパッキング装置の狭い隙間を駆け抜けた。
普通の人間なら躊躇する幅。
だが遥斗にとっては、教室の隅と同じ聖域だった。
心臓が耳の中で鳴る。
左から影、右からブーツの音。
金属の端が腕を切り、血がにじむ。
痛みは後回し。
レーンの向こうに、一瞬、白銀の横顔が見えた。
日向葵。
彼女はもう、逃げられない。
(ランク外で十分だ)
遥斗は歯を食いしばり、出口へ全力で駆けた。 その時――
「おっと、そこは行き止まり」
場違いなほど軽快で流暢な日本語。
「垂直に壁を走ったほうがいいぜぇ、未登録くん」




