全部……噓だったんだ……
ふっと目を開けた時には、部屋は薄暗かった。
どうやら僕はご飯も食べずに午前中からずっと寝続けていたらしい。
部屋のテーブルには食事の乗ったトレイが二つ乗せられていた。
昼食と夕食だ。
きっともうスープは冷たくなって、パンも硬くなっているだろうな……。
起こしてくれたらよかったのに……。と思ってしまったけど、使用人さん達は僕が話しかけても誰も言葉を返してくれない。
ジョシュア様が、異界人と話すのが怖いのではないかと言っていたので、僕も話しかけるのは諦めた。
四人は座れそうなサイズのテーブルにポツン一つだけの椅子は、僕と食べてくれる人なんて誰もいないと言われているような気がした。
それでも魔力消耗からようやく回復した僕のお腹はぺこぺこだったので、ひとりで椅子に座って手を合わせる。
「いただきます」
小さな小さな自分の声に、返事はもちろんない。
クロがいた頃は、僕がご飯を食べ終わるまで、クロはいつも興味深そうに僕が食べるのをずーっと眺めていた。
時々視線が痛くて食べ辛かったけど、今思えばそれは贅沢な悩みだった。
「……っ」
鼻の奥がツンとしてしまって、僕は手を止めた。
ダメだ。
クロがいた頃の幸せな夢を見てしまったからか、いつもよりも寂しい気分でいっぱいになってしまう。
「クロ……」
勝手に口から零れてしまった僕の声に応えるように、窓の外で黒いものがチラついた。
「え……?」
僕は席を立つと窓際へと近づく。
この窓は開けないようにとジョシュア様に言われていた。
開けると、この建物にかけてある結界が薄くなってしまうからと。
だけど、窓の外でひらひらと舞う黒い蝶のような何かをよく見てみたくて、僕はその窓を開けてしまった。
すると声が届いた。
ジョシュア様の声と、知らない男性の声だ。
知らない声はジョシュア様より偉そうなので、これは長男さんの声なのかな?
「最近異界人の……あーあれだ、リーヨ? の魔力量がすごいらしいじゃないか」
「そうなのですか?」
「とぼける気か?」
「いえそんな……、リヨの事……でしょうか」
え、僕の話……?
ジョシュア様は僕の名前……緑斗が発音できないと言って、最初の二文字を取ってリヨと僕を呼んでいた。
三階の僕の部屋から眼下の中庭を見渡すと、かなり遠くの東屋にジョシュア様の綺麗な金髪が小さく見えた。
こんな遠くなのに、どうしてか声はよく聞き取れた。
周りが静かだからだろうか……?
「お前が構ってやったのか? お前が男もいけたなんて知らなかったな」
「いえそんな……、ただ優しく接しているだけです」
「ははっ、それだけであんなに魔力が出せるなんて単純な異界人だ。あれは魔力の質が良いと聞いたぞ? 量も魔術師五十分の働きに匹敵すると」
「……はい」
「どれ、私も構ってやろうか。最初に見た時はまだまだ子どもだったが、こないだチラと見た時には背も伸びて、何やら憂いを帯びた色っぽい表情をしていたようだし、たまには違う相手というのも悪くない」
「リヨはもうこちらにきて五年です。そろそろ魔力も尽きる頃かと思われます」
「……なんだ。何が言いたい?」
「その……、僭越ながら……、兄上が手を出したために魔力が減ったと言われてしまっては、良くないのでは……と」
「ふむ……。確かに今は調子が良いようだからな。では調子が落ちてきたら構ってやるとしようか」
「ええ、それが良いでしょう」
「逃げられないようにしておけよ? 男は逃げ出しやすいからな」
「はい」
「外は危険で、ここだけが安全だと言い聞かせておけ。男には民の暮らしに役立っていると、有用性を伝えておけば喜ぶだろう」
「はい」
「お前にしかできない仕事だ、お前が世界を救ってるんだと吹き込んで、十分やる気を引きだせ」
「はい」
「お前はその顔くらいしか使い道がないんだからな。屋敷を追い出されたくなければ、私の分もしっかり働く事だ」
「はい」
「よし、もう一本開けるとしよう。リイヨだかなんだかのおかげで最近は潤っているからな。異界人達にはこの調子で永遠に私に魔力を捧げ続けてほしいものだ。なあ、ジョシュア」
「はい、兄上」
ハハハハハと楽しそうな笑い声をどこか遠くに聞きながら、僕は震える指でそっと窓を閉めた。
気づいた時には、黒い蝶のような何かはいなかった。
目の前が真っ暗で、どうしようもできなくて。
僕は顔を覆って窓の下に蹲る。
どうして自分は、ジョシュア様の言葉を疑いなく信じてしまったんだろう。
彼がずっと……親切だったからだろうか。
彼は親切だったんじゃなかったのに……。
ただ、親切なフリをしていただけだったのに……。
ああ、なんだかようやく、納得した。
納得……してしまった。
どうしてこんなに、毎日寂しいと思ってしまうのか。
ああ、僕も心のどこかで、薄々おかしいなと思ってはいたんだな……。
でもそれを、ずっと、見て見ぬフリしてたんだ。
僕は彼に助けられたから。
彼に養われている恩があるから。
彼が喜ぶなら、人のためになるなら、寂しくても辛くても頑張ろうと思っていた。
だけど、全部……嘘だったんだ……。
その日から、僕が注げる魔力の量は日に日に減っていった。
それから二十日ほど経った頃、ジョシュア様が僕の部屋に来た。
「リヨ、喜ぶといい。働きたがっていた君にぴったりの働き口が見つかったよ」
そう言ったジョシュア様は優しい声で説明を続ける。
ただし貴族の屋敷内で見聞きしたことを他言されては困るので、僕には秘密を守るための契約魔法をかけさせてくれ、と。
どうやら僕は魔力切れと判断されて捨てられるようだ。
僕はこれからどうなるんだろう。
それでも、ここで一生飼い殺されるよりはマシな気がして、僕は素直に「はい」と頷いた。
魔法陣が描かれた契約書のようなものにサインを書かされる。
久々に書いた自分の名前を、それでも迷わず書く自分の手になんだか驚く。
すると、そこから一本の荊棘のようなものがスルスルと出てきて僕の首に巻きついた。
うわ、と声を上げたつもりだったけど、僕の声が音になることはなかった。
……まさか……。
僕は何度も声を出そうとする。
あーあーと上げたはずの声は息になることすらなかった。
ただ首がじわりと絞められたような、わずかな息苦しさだけが残る。
「大丈夫、慌てることはないよ。この契約書は新しい主人に渡しておくから、向こうに着いたら解いてもらえるからね」
僕は愕然とした。
まさか……喋れなくされるとは、思っていなかった。
いや、契約書にはきっと書いてあったんだろう。
でも僕には読めなかった。
……だから彼は僕に文字を教えなかったのか……。
「そんなに不安がらないでおくれ。大丈夫、リヨが困るような事にはならないよ」
ジョシュア様は最後まで僕に乱暴な言葉をかけることはなかった。
ジョシュア様のどこか緊張したようなヒヤリとした手が、遠慮がちにそっと僕の頭を撫でた。
もしかしたら僕の魔力が回復したら、また呼び寄せて同じことをさせるつもりなのかも知れない。
だからジョシュア様は、僕にずっと親切でいてくれるんだ……。
僕の事を、本当は何とも思っていなくても……。
ぼんやりとそんなことを考えながら、案内をしてくれる兵隊さんの後をトボトボと歩いてゆく。
初めて建物を出て、アンデクトス侯爵家の門を抜けて、僕はふと振り返った。
ああ、今まで僕がいたのは……五年間ずっと過ごしていたのはこんな場所だったのか。
じっと見上げていると、兵隊さんが「行くぞ」と声をかけてきた。
ジョシュア様以外の人に話しかけられたのが嬉しくて、僕は思わず「はい」と答えようとしたけれど、言葉は出ない。
案内の兵隊さんは僕が喋れないのを知ってるのか「ほら来い」と急かしただけで歩を進めた。
目的地には荷馬車が三台ほど並べられていた。
着くまでに五十分は歩いただろうか。
普段の運動不足が祟って、僕は二度も休憩を挟んで案内の兵隊さんを待たせてしまった。
「こいつがリヨだ」
兵隊さんはそう言って馬車の横に立つ恰幅の良い男から書類にサインをもらっている。
「確かに渡したぞ。ほら、行け」
トン、と兵隊さんに背を押されて、足がブルブルしていた僕はそのままつんのめってしまう。
すると、恰幅の良い男の隣にいた男が、パッと僕の前に飛び出した。
ローブにフードを目深に被った男の手が、僕の両肩をそっと包むように支える。
わ、ごめんなさい。
という言葉は声にはならなかったけれど、その人は僕の耳元で「もう大丈夫だ」と低い声で言った。




