僕のことは置いて行っていいよ
……え?
僕は思わずその人の顔を見上げる。
黒い髪に包まれた顔は、キリッとした眉に、眦が鋭く吊り上がっている。
片目は大きな傷が入っていて閉じたままで、もう片方の目からは金色の宝石みたいな瞳がのぞいている。
彫りの深い整った顔ではあるものの、傷のせいかどこか怖そうな凄みを感じる。
それなのに、妙に懐かしく思ってしまったのは、その金色の瞳がクロに似ていたからだろうか。
と思った瞬間、辺りが騒然とした。
わぁっ、とか、きゃあっ、とか悲鳴が上がったと思ったら、ザアッとバケツをひっくり返したような雨が降り出してきた。
うわ、スコールだ。
僕を案内した兵隊さんが慌てて帰っていく。
ああ、この人はあの屋敷に帰るんだな……。
僕はその背中をぼんやりと見送る。
「通り雨だ!」
「馬車に乗せろ!」
「馬を出すぞ!」
「分かった!」
豪雨の中で、恰幅の良い男とさっきの男と御者さんが雨に負けないように叫び合っている。
「ほら、こっちだ」
僕の手を男が優しく引いてくれるけど、馬車の荷台は僕の腰ほどの高さだ。
えっと、その高さまで僕は果たして飛び乗れるんだろうか……。
迷う間に、男は僕の体をひょいと横に抱き抱えた。
ひぇぇっ。
思わず変な声をあげそうになってしまって、声が出せなくてよかったと初めて思う。
荷馬車がゴトゴトと走り出す。
雨もあってか荷台はかなり揺れている。
でも僕は何故か、男の腕の中に包まれているのでぐらぐらしないで済んでいる。
んんん……?
なんでこんな状態に……?
僕は内心首を傾げるものの、久々に感じる人の温もりに酷くホッとしてしまう。
雨で少し濡れてお互いひんやりしてはいるけど、それでもこんな風に人に包み込まれていることそのものが嬉しい。
まるで知らない男の人に支えられてこんなに嬉しく思ってしまうなんて……。
僕は、自分がどれほど他人を強く望んでいたのかを思い知らされた。
情けないと思うのに、それでも胸に広がる安堵と多幸感に口端が緩みそうになってしまう。
「おい、そいつは侯爵様の物だぞ、あんまりベタベタ触るなよ」
荷馬車に乗っていた恰幅のいい男が言うと、僕を包む男は僕から手を離すことなく答えた。
「だからこそ、傷が付かないようにしている」
「ふん、まあこの揺れじゃあそんな細っこいのは転がりそうではあるがな。それ以上触れるなよ」
釘を刺された男が「分かっている」と答える。
それ以上って……もうこれ以上くっつきようがないんじゃないかと思うけど……?
そんな風に思った時、突然世界が真っ白になった。
なんだ!?
ビカビカっと明滅を繰り返す空に、あ、雷か、と思った瞬間、轟音が轟く。
ドゴオオオオンッッ!!
間近で鳴り響いた音に、馬達がいななきを上げる。
急に加速した荷馬車に御者と恰幅のいい男の慌てた声が重なる。
「おいっ、落ち着け!」
「どうした!?」
「馬が落雷に驚いて……っ!」
ガタンッと大きな音がして、ガガガガガッとものすごい衝撃が伝わる。
「脱輪か!?」
「違う! 車輪が外れた!」
思わず目をつぶり体を固くした僕の耳元で、男がもう一度「大丈夫だ、私が必ず守る」と囁く。
その言葉に、ジョシュア様も僕の事を守ると言ってくれていたな……と胸が小さく軋む。
――しかし、本当に大丈夫……なんだろうか?
雨は凄いし雷は凄いし、馬車の速度は凄い上にもう半分傾いてるし、今にも死にそうに思えるんだけど。
思う間に、車体は大きく傾いた。
ドガッ! ガッシャンッ! という激しい音と衝撃。
続いてズザザザザと車体がしばらく滑った後で、数秒後に、荷馬車はようやく止まった。
……あまりの衝撃に頭がくらくらする。
ガシャとかバキバキ……とかミシミシいう小さな音が続く中で、そうっと目を開けてみたら、僕の体は男ごと横向きになってはいたけれど、男の体にしっかり包まれたままで、本当に傷ひとつなかった。
見上げれば、ひとつきりの金色の瞳が、優しく僕を見つめていた。
ああ……本当に、この人は僕のことを守ってくれたんだ……。
その事実にドッと心臓が跳ねる。
ありがとうございます。と伝えたかったんだけど、やっぱり声は出ない。
「ぐぅ……酷い目に遭った……。おい、お前達、生きてるか……?」
よろよろと恰幅の良い男が……ってうわ! 腕が……それ折れてる……よね……?
きゅ、救急車……はないよね、えっと、病院! は、あるんだっけ……?
僕は本当にこの世界の事を何も知らないまま五年も過ごしてたんだなぁ……。
御者さんは外に吹き飛ばされていて、遠くからズルズルと足を引きずってやってきた。
御者さんの足の向きが片方おかしい。
こちらも骨が折れてそうな気がする……。
よく見ると、僕を守ってくれた男の腕や足にも擦り傷や切り傷がたくさん出来ていた。
どうしよう……、あちこち血が滲んでいる。
きっと、僕を守ってくれたからだ……。
荷馬車の中は荷物がごちゃ混ぜになっていたけれど、荷馬車自体は無事だったようで、男達は雨の中でもげた車輪を拾ってきて、車体を立て直し始めた。
僕も手伝おうとしたけど、怪我をさせたら元も子もないと言われて、大人しく見学している。
今日は一旦さっきの町に戻って、そこで怪我を治したり必要な物資を補充してから目的地に出発することにするらしい。
恰幅のいい男はやはり腕が折れていて、御者さんもやはり片足が折れていた。
なので荷馬車の立て直し作業は、ほぼ、僕を守ってくれていた男が一人で行っていたのだが、この人は本当にすごい。めちゃくちゃ力持ちだ。
重そうな荷馬車を一人で持ち上げたところなんか、本当に人間なんだろうかと思った。
僕では二人がかりでも持てそうにない車輪を片手で持ちながら、もう片方の手で荷馬車の片側を持ち上げてはめる様には、僕だけでなく恰幅の良い男や御者さんも思わず拍手した。
その時、また空が光る。
雨脚は弱まりつつあったけど、まだ雷は続いていた。
見上げた空に、赤い何かが羽ばたいている。
鳥……? こんな天気に……?
その時、僕は思い出した。
僕がこの世界に来たあの日も、こんな風に雨の日で……。
不意に、ゴウッと風が通り抜ける。
そうだ。こんな不気味な風が吹いている日だった……。
僕は、空を飛ぶ赤い物を追いかけてフラフラと歩き出す。
赤い物はよく見れば黒竜に似た体つきをしていた。
ああ、あれは竜だ……。
いつの間にか、僕は駆け出していた。
赤い竜は強い風に揉まれて右へ左へと翻弄されている。
その度に、落ちまいとして子竜が必死で羽ばたく。
何度そんな攻防を繰り返しただろうか。
必死に羽ばたいていたその翼が、ついに諦めたかのように羽ばたきをやめてしまう。
ああ、諦めないで!
僕が今、そこまで行くから。
もうちょっと……もうちょっとだけ頑張って……!
僕は強く祈りながら必死で走る。
ヒラ、ヒラリと風に弄ばれながら落ちてきた赤い竜は、僕の五メートルほど向こうに落ちた。
ドン! と地に響いた音に、その衝撃を思うと心臓が止まりそうになる。
間に合わなかった事を悔やみながら、僕は赤い竜に駆け寄った。
大丈夫!?
って声が出ないんだった……っっ!
赤い竜は落ちた衝撃でまだ動けないようではあったけど、首をもたげて僕を睨んで威嚇するようにグルルルルと唸る。
真っ赤な体に緑色の瞳がすごく綺麗だ。
ああ、そうだ、魔力を……。
僕は両手を竜に向ける。
竜は僕に噛み付かんばかりの勢いで威嚇してきたけど、僕の両手から魔力が溢れ出すと、驚いたような顔をした。
僕はそのまま、赤い竜の全身を魔力で包むように惜しみなく魔力を注ぐ。
今朝まで、まるで枯れ果てたかのように全然出てこなかった魔力は、なぜか驚くくらい簡単に僕の中から溢れてきた。
赤い竜は威嚇をやめて、僕のことをキラキラした緑色の瞳で見つめている。
しばらく魔力で包んでいたら、赤い竜がすくっと立ち上がった。
よかった……。元気になったんだね。
赤い竜は僕の片手にそろりと頭を擦り寄せて、もう片方の掌をペロペロと舐め始めた。
ああ、魔力を食べてるんだな、と僕は思う。
クロもよくこうやって、魔力を集めた僕の掌を舐めてたなぁ。
クロは暴れん坊で、よく室内でドタバタしては小さな怪我をしていたから、竜という生き物はこうやって魔力で包むと怪我が治ることを僕は知っていた。
ああ、よかった……。
クロと過ごした時間のおかげで、この竜の子を助けることができた……。
ホッとした途端、膝が笑って、僕はその場に膝をついた。
なんとか両手を出したけど腕に力が入らなくて、水をたっぷり吸った草原に頭から突っ込むと思った時、僕の目の前に赤いものが割り込んだ。
ああ、子竜だ。
僕を助けようとしてくれてるのか。
ごめんな。
僕はもう動けそうにない。
僕のことは置いて行っていいよ。
そう伝えたいのに、言葉が出なくてもどかしい。
捨てられたという精神的なショックに、馬車での衝撃に、ここまでずっと走ってきた疲労に、使い果たした魔力。
もう、とても意識は保てそうになかった。
あっ。
どうしよう。
あの人達に何も言わずに離れてしまった。
……今頃、僕のことを探してるんじゃないだろうか……。
あの黒髪に金色の瞳をしたお兄さんの顔が、瞼の裏に蘇る。
僕のことあんなに一生懸命守ってくれたのに……。
依頼主に届けられなかったら、きっと彼らは怒られてしまうよな……。
ごめんなさい……。
……勝手に……いなくなって……、本当に……ごめん、なさい……。




