親切な貴族に拾われた僕
僕は今日も魔力貯蔵石に流し込めるだけの魔力を流し込んで、ふぅ、と息を吐いた。
脱力感にもつれそうな足をなんとか励ましながら、屋敷の長い廊下を進む。
僕が今お世話になっているアンデクトス侯爵という貴族の屋敷はとても広い。
敷地も庭も広く、建物も何棟も建っていて、僕はここで暮らし始めてもう五年も経つのに、まだこの屋敷の五分の一ほどしか知らなかった。
あともう少しで部屋だと思ったところで、後ろから声がかかった。
「リヨ、今日もご苦労様」
侯爵家の次男ジョシュア様の声に、僕は思わず勢いよく振り返る。
途端に足がもつれた。
「危ないっ」
転びかけた僕の腕を引き上げてくれたのはジョシュア様だった。
「ああ、間に合ってよかった……。気をつけるんだよ」
僕が転ばずすんだことに、ジョシュア様はホッとした様子で微笑んでくれた。
ジョシュア様はキラキラした金髪と優しい空色の瞳がすごく綺麗な人だ。
「あ……ありがとうございます……」
ジョシュア様に助けてもらえて、僕は嬉しくなってしまう。
「リヨは最近ずいぶん沢山魔力を注いでいるらしいね。あんまり無理をしないで……、いや、無理をしすぎないでほしい」
ジョシュア様が心配そうに言うので、僕はなるべく元気な顔をして答えた。
「僕は大丈夫ですよ」
「それなら良いのだけど……くれぐれも無理はいけないよ?」
まだ心配そうなジョシュア様は、侍従の人に何かを耳打ちされてほんの一瞬だけ眉を寄せた。
「リヨのおかげで民の暮らしも楽になるよ。これからも、頑張ってほしい」
ジョシュア様はそう言って、金色の髪を揺らして碧眼を細める。
「はいっ頑張りますっ」
「ほら、まだ顔色が悪いよ。ゆっくり休みなさい」
ジョシュア様が僕の部屋の扉を開けてくれる。
侯爵家の貴族様が、わざわざ僕のために部屋の扉を開けてくれるなんて……。
なんだかドキドキしながらいつもの部屋に入る。
お礼を言わなきゃと振り返った時には、扉はパタンと閉められていた。
ジョシュア様と侍従さん達の足音が遠ざかってゆく。
僕ひとりきりの部屋はいつも通りに、しん、と静かだった。
今日も僕は、この広いお屋敷の中で、この部屋で……ひとりぼっちだ。
三階の窓から空を眺めると、窓ガラスには疲れた顔の自分が映っていた。
部屋に籠りきりで運動もしてないからか、ひょろりと細く白い身体に、二十歳になってもあまり変わらない童顔。
長くも短くもない癖のない髪がすとんと顔回りを包んでいるのも、黒目がちな目だけがくりっと丸っこいのも、伸びないままに成長期を終えた百六十三センチの背も、幼さに拍車をかけている気がする。
もうここへきて五年も経つのに、僕も、環境も、何もかもが変わっていないように思えた。
僕はベッドにうつ伏せに倒れ込む。
限界まで魔力を注いだ疲労感から、全身は鉛のように重い。
睡魔はあっという間に僕を眠りへと誘う。
ああ……やっぱり、寂しいな……。
せめてクロが……そばにいてくれたらよかったのに、な……。
心の奥深くで呟いた声は、誰にも届く事なく、夢の中へと沈んで消えた。
僕、森川 緑斗が十五歳でこの国に迷い込んだのは、風の強い雨の日だった。
学校の帰り道を歩いていたはずの僕は、もう少しで家だというところで、気づけば見知らぬ草原に立っていた。
傘もないし、とにかく雨宿りできるところをと駆け出した時、近くで雷が落ちた。
ものすごい轟音に思わずそちらを見れば、プスプスと黒い煙を上げている黒い塊があった。
なんだろう、鳥が雷に当たったとか……?
恐る恐る近づいてみるとそれは鳥よりもずっと大きく、うちの柴犬よりも少し大きいくらいだった。
生き物だったのかな……、と思った時、黒い塊が小さく動いた。
「まだ生きてる……!」
僕は思わず黒い塊に手を伸ばした。
黒い塊はほんの少しだけ抵抗しようとして、でもそれも出来なかったのかぐったりと項垂れた。
「ど、どうしよう。動物病院……っていうかその前にここはどこなんだ……!?」
しばらく草原を走って、ようやくポツポツと木が見えてくる。
雷雲がすっかり遠かったのを確認して、僕はその木の根元に腰を下ろした。
腕の中に抱え込んだ黒い生き物は僕よりもずっとひんやりとしている。
雨に体温を取られたのか、それとももう死にそうなのか……。
僕は雨が黒い生き物に当たらないように体を屈めて黒い生き物を覆う。
ピスピス、と弱い鼻息が顔にかかって、ああ、まだ生きてる……と思った途端、何かが唇に触れた。
葉っぱか何かがそっと触れたような、そんな軽い感触。
それが二度、三度と繰り返されて、僕は少しだけ顔を離す。
すると、長いものがシュルッと伸びて僕の唇に触れて、また戻ったのが見えた。
「……?」
黒い塊をよく見れば、ぱちぱちと瞬きをする金色の瞳がある。
まるで宝石みたいな金色は、キラキラしててすごい綺麗だ……。
うっとり見惚れているうちに、また唇に何かが触れては戻る。
舌……なのか……?
うちで飼ってる柴犬のネネも、こんな風に僕の口元を舐めてくることがあるが、デロデロの涎まみれになってしまう。
それに対して、この黒い生き物の舌は何てあっさりしてるんだろう。
ベロンとした感じもなければ、猫のようにざりっとすることもないし、ただ何かが触れたような感じが僅かに残るだけだ。
そう思う間に、もう一度、二度と唇を舐められる。
甘えてるのかな?
助けてくれてありがとうって事なんだろうか。
死にかけていた生き物が少しでも動くようになってくれた事に安堵した途端、僕はとんでもない疲労感に襲われて動けなくなった。
「ぅ……」
顔を上げるどころか、ほんの小さな呻きを漏らすのが精一杯で、急激に瞼が落ちてくる。
すぐ近くからキューンキューンと甘えるような謝るような、そんな鳴き声が聞こえて、ああ、この黒いのは声が出せるくらいに回復したのか、よかった……なんて思ううちに意識までもが沈んでゆく。
ずっと遠くで、雨と風の音に紛れて、聞き慣れない金属音がガチャガチャと近づいてきた。
「いたぞ! あそこだ」
「捕まえろ!」
誰かが何かを叫んでいる。
僕に分かったのはそこまでだった。
目が覚めた時、僕は見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。
僕が寝かされていた部屋は、その日から今日までずっと僕の部屋だ。
僕は気を失っていたところを、アンデクトス侯爵という偉い貴族の人に拾われたらしい。
アンデクトス侯爵は、僕のように異世界から迷い込む人の面倒を見てくれているらしく、僕はそれからもう五年も衣食住の面倒をこの屋敷でずっと見てもらっていた。
僕が屋敷の外に出たことは、一度もない。
アンデクトス侯爵家の次男だというジョシュア様は、金髪碧眼のいかにも貴族らしい容姿の方で、いつもキラキラ輝くような笑顔を浮かべている人だった。
僕を拾った当初からずっと僕のことを気にかけてくれて、僕の事を守ってくれると言ってくれた。
僕はここ五年ほど、ジョシュア様以外の人とほとんど話す機会がない。
ジョシュア様は忙しい方らしく、三日に一度会えれば良い方だった。
拾われた最初の日に、アンデクトス侯爵家の長男さんだという鋭い目つきの人にも会ったけど、その人は「こいつの面倒はお前がみろ」とジョシュア様に言っただけで立ち去ってしまった。
今では顔も思い出せないし、怖そうな人だったなぁくらいの印象しかない。
ジョシュア様が言うには、屋敷の外には僕のような異世界からきた人……『異界人』を狙う悪い人がたくさん居るらしい。
異界人は魔力がこの世界の人より多いらしく、悪い人に捕まったが最後、死ぬまで一生魔力を吸い取られ続ける人生が待っていると言われてしまった。
僕がいるこの建物と隣の魔力貯蔵棟には、外から魔力が探知できないような魔法がかかっているらしく、ここから出なければ僕は安全に過ごせるらしい。
そんなわけで、僕はジョシュア様のおかげで毎日安全に生活させてもらっている。
してもらうばかりでは悪いと僕が言うと、ジョシュア様はこの世界のことをまるで知らない僕にはできる仕事がないと言った。
文字や勉強を教えてもらえませんか? と尋ねてはみたけれど、この世界では異界人を怖がる者が多いらしく先生役が見つからないそうだ。
「私にもう少し時間があればよかったのにな」と苦い顔をするジョシュア様に、僕はそれ以上の我儘も言えなくて、僕にできる事といえばもうずっと、毎日一回魔力貯蔵石に魔力を注ぐ仕事だけだった。
「僕にももっとできることがあればよかったのに……」
ベッドの端に座ってつぶやいた僕に、クロが「ガゥッ」と怒ったような声で小さく鳴いた。
あれ?
クロがいる……?
そっか、これは夢か……。
……夢でも、会えて嬉しいよ、クロ。
僕が拾われた日に、僕が抱きしめていた黒い塊は黒竜と呼ばれる竜の子どもだった。
竜は魔力が主食だとかで、弱っていた黒竜はしばらく僕と一緒にこの部屋で過ごしていた。
全身が真っ黒のゴツゴツした鱗に覆われていて、キラキラの金色の瞳をした黒竜は、とても強い大きな竜に育つらしい。
僕はこの黒竜に、クロと安直な名前をつけて可愛がっていた。
クロも僕によく懐いてくれて、この世界に来てすぐの不安で寂しい気持ちを随分と和らげてくれた。
けれど、しばらく……僕の体感で三か月ほど経った頃に、ジョシュア様が「そろそろ傷も癒えたようだし野に返してやろう」と引き取って行ってしまった。
クロはめちゃくちゃ暴れて抵抗したけど、魔法で眠らされて連れて行かれた。
……可哀想だけど、仕方ないよね……。
クロはこの部屋よりも大きく育つらしいし、何より、仲間がいるなら仲間の元に帰るほうが幸せだもんね……。
僕はもう、家族にも友達にも会いに行けないけど……。
クロは流石に竜だけあって頭が良いのか、僕の質問に頭を振ったり頷いたりして色々答えてくれた。
クロにはやるべき事があって、帰るべきところがあるらしい。
それに、帰りを待っている仲間も……。
「クロは棲み家に帰ったら、家族も友達もいるの?」と尋ねた僕に、クロは頷いていたから。
調子に乗って「僕のこと好き……?」って聞いた時には、ずいぶん困っていたようだったけど。
クルル……と時折喉を鳴らして逡巡していたクロは、結局コクリと頷いてくれた。
黒竜の顔色は全然分からないけど、なんとなくその顔が凄く恥ずかしそうに見えて、それでも僕のために頷いてくれた事が本当に嬉しかった。
「ありがとうクロ、僕もクロが大好きだよ。僕ひとりだったら、寂しすぎて生きていけないところだったよ」
そう言ってクロを抱きしめた僕の顔を、クロは何度も優しく舐めてくれた。
クロ……。
クロにもう一度、会いたいなぁ……。




