……ひどい……
侍従達を連れて玄関から入ってきたジョシュア様は、ひどくやつれているように見えた。
使用人達が揃っておかえりなさいませと頭を下げるのを、ジョシュア様が「私のことはいいから仕事に戻りなさい」と優しく解散させる。
ぐらりと傾いたジョシュア様の肩を侍従の方が慌てて支える。
瞬間、ジョシュア様が痛みを堪えるような顔をした。
どうしたんだろう。
どこか調子が悪いんだろうか……。
移動が難しいのか、ジョシュア様はそのまま玄関の端にあるソファにゆっくりと座る。
けれど、背もたれに背を預ける様子はなかった。
ヴェルデはそんなジョシュア様の足元にぴたりと寄り添っている。
「ジョシュア様、お帰りなさいませ」
僕が声をかけると、ジョシュア様は少しだけ驚いたように瞬いて、それから優しく微笑んだ。
「ああ、ただいまリヨ。君におかえりと言ってもらえるのは嬉しい事だね」
その言葉に胸がいっぱいになってしまう。
ジョシュア様が喜んでくれるなら、僕はずっとここで帰りを待つのに。
そんなにヘトヘトになっているのに、僕に会うためにここまで馬車で来てくれたんだと思うと、それだけで嬉しくてたまらなかった。
ジョシュア様に謝らなきゃ、そして、今までの感謝を伝えたい……。
そう思って口を開いた途端、バンッと屋敷の扉が勢い良く開いた。
「ジョシュア様っ! ビリデクト様がいらっしゃいます!!」
エトさんが切羽詰まった様子で叫んでいる。
「もう間もなく到着なさいますっ!!」
ざわ。と小さく空気が揺れて、屋敷中の人に緊張が走る。
「後をつけられていたのか……」
ジョシュア様は苦々しい顔を一瞬で穏やかな顔に戻して僕に言った。
「リヨすまない、しばらく隠れていてくれないか」
「は、はい」
「リヨ様はこちらへ、走れますか?」
「はい」
エトさんに手を引かれて僕は走り出す。
「屋敷の皆はいつも通りに頼むぞ!」
僕の背中で凛々しくそう告げるジョシュア様の声が、ほんの少し震えているような気がして、僕は胸が苦しくなった。
廊下を走る僕の両脇をオーロとヴェルデが走る。
僕達は物置へと続く渡り廊下へと出る。
ヴェルデは一度だけジョシュア様の方を振り返ってから「ガウウ」と小さく鳴いた。
「やっとか。早く行け」
オーロがそう答えると、ヴェルデは勢いよく庭の方へ走り出してそのまま飛び立った。
「ヴェルデ!?」
「ようやく儀式を終えてくる気になったらしい」
え、今……!?
「リヨ様、お早くお願いしますっ」
エトさんに急かされて、僕は慌てて前を向いた。
別邸の物置は、一軒家一つ分はあるんじゃないかという広さだ。
日本で言う蔵みたいな物なんだろう。
エトさんが素早く物置の奥の棚の板を外すと、その奥にハンドルがあった。
ハンドルを回すと、物置の天井から隠し階段が降りてくる。
「それで十分だ」
オーロはそう言うと、まだ半分ほどしか降りてきていない階段に、僕をひょいと抱えたまま飛び移った。
「私は戻らねばなりません。私が戻るまでどうかそのままで。オーロアデル様、リヨ様をどうかどうか、よろしくお願いします」
エトさんの切実な声にオーロが「必ず守る」と答える。
隠し階段はすぐに元通りに巻き上げられて、階下でゴトゴトンと棚を戻しているような音がする。
オーロは僕に床にうつ伏せるように言う。
僕は素直にそれに従う。
エトさんが物置の戸を閉めて出て行った音がしたのと、ガラガラと馬車の音が遠くから聞こえてきたのはほぼ同時だった。
ガランとした物置の屋根裏には、小さな通気用の格子窓が壁の両側にあった。
埃っぽい空気の篭った屋根裏で、オーロがそれをそっと開ける。
すると、外の声がよく聞こえるようになった。
ジョシュア様は勝手に来た兄に対しても丁寧な出迎えを行ったようだった。
けれどお兄さん……ビリデクトは何やらご立腹のようで、ジョシュア様を酷く詰っている。
まだそこには使用人の人達もいるはずなのに、皆の前でそんな事を言わなくてもいいだろうに……。
「屋敷内をくまなく探せ!」
ビリデクトの指示にいくつもの声が「はい」と続いて、たくさんの足音が響いた。それから屋敷内が騒然となる。
使用人の人達の悲鳴が聞こえて、僕は思わず目をギュッと閉じた。
「……ひどい……」
思わず呟くと、鼻の奥がツンとする。
「リョクト、静かに。ここにいれば大丈夫だ」
オーロは落ち着いた低い声でそう言って、僕の頭を優しく撫でる。
オーロは僕に覆い被さるようにして、僕をその大きな体で包んでくれていた。
あの雨の日のように、オーロの体は僕にくっついていてもどこかヒヤリと冷たい。
「私が必ず守る」
決意の籠った小さな囁きは、心まで染み込むようで、心臓がドクンと跳ねた。
そうだ。初めて会った時も、オーロは僕にそう言った。
そして本当に、あの馬車の事故から僕を守り切ってくれた。
それからも、僕が危なくなる度に、オーロがずっと僕を守ってくれた。
どうして……?
どうしてオーロはずっと僕を守ろうとしてくれるんだ……?
今なら聞けるかも知れない。
そう思った途端、足音が近づいて、物置の扉が乱暴に開けられる音がした。
思わず身を縮めて息を止める。
足音からして二人だろうか。
ガタゴト、ガシャン、パリン、と何かが割れるような音が続く。
どうしてわざわざ探し物をするのにそんなに色々壊さなきゃいけないんだ。
これもあのビリデクトの指示だというのなら、僕はあの男が許せない。
屋敷から時折聞こえる悲鳴には、僕にいつも声をかけてくれる人達の声が混ざっていて、それもまた僕の怒りを煽る。
「ここには居ない」
「次だ、急げ」
そんな会話と共に男達が物置から引き上げていく。
ホッとする気持ちよりも、煮えたぎるような怒りの方が強くて、僕は悔しさに奥歯を噛み締めた。
男達が出ていくと、静かになった物置には、ビリデクトがジョシュア様を責める声がはっきりと聞こえてきた。
「あれが村で勝手に魔力を注いだらしいじゃないか!」
ああ、そのせいでバレてしまったのか。
「しかも赤竜を連れていたとか、黒竜を呼んだと聞いたぞ!?」
二人の姿も村人に見られていたから……。
「どこに隠した!」
ビリデクトが叫ぶ度に、バシッ、バシンッと破裂音のような鋭い音がする。
その度に、くぐもった小さな声が漏れ聞こえた。
「聞こえんぞ、ハッキリ言え!」
「っ、ですからっ、馬車の、事故で……、行方知れずになったと……ぅあっ!」
「早く連れてこい!」
「っ!」
ああ、どうしよう。分かってしまった……。
これは、ジョシュア様が叩かれているんだ。
手ではなく、何か硬い物で……。
震えるほどの怒りに、目の前が赤く染まる。
「魔力が戻ると分かっていたのか!」
「私を出し抜くつもりだったのだろうが、そうはいかんぞ!?」
怒号とともに繰り返される鋭い音に、耐えきれず僕は立ち上がった。
いや、立ち上がったつもりだったんだけど、僕の体はオーロにガッチリ押さえられていて、びくともしなかった。
「離して! 僕が行かなきゃジョシュア様が……!」
そう叫ぼうとした僕の口は、一言目を発するよりも早くオーロの大きな手で完全に覆われてしまう。
その間も肉を裂くような鋭い音は醜い怒号とともに続いている。
僕は必死でオーロの腕の中から出ようともがく。
でも僕の倍以上あるオーロの体は微動だにしなくて、僕は無力で、悔しくて、涙が溢れる。
暴れる事を諦めた僕を、オーロがぎゅっと抱きしめる。
「あの男は貴方のために耐えてるんだ。……その努力を、無駄にしないでやってくれ……」
僕の耳に、オーロの懇願するような言葉が小さく届いた。
オーロも今、僕と同じ悔しい思いを抱えてるんだろうか。
オーロはジョシュア様があまり好きではなさそうだったのに、それでも悔しいと思ってるんだとしたら……。
このお屋敷の人達は皆ジョシュア様が好きだ。
ジョシュア様を小さい頃から見てきたと言う家令のワドナーさんや、ジョシュア様が大好きだと言っていた侍従のエトさん。
僕よりずっとジョシュア様を大切に思っている人達が、今、僕よりもジョシュア様の近くに居るはずだ。
その人達が我慢してるのに、僕が……。
守られているだけの僕が……台無しにしたら……ダメなんだ……。
涙が後から後からボロボロ零れる。
僕は嗚咽を漏らさないよう、歯を食いしばった。
噛み締め過ぎた顎が痛む。
ジョシュア様はきっと、僕の何倍も痛い……。
ジョシュア様は、こんな酷い事をずっと言われていたのか……。
それなのに、ジョシュア様はいつでも僕に優しかった……。
僕はジョシュア様よりずっと弱い立場だったのに。
ジョシュア様は僕に八つ当たりする事なんて一度もなかった。
ジョシュア様は、本当に……僕をずっと、守ってくれてたんだ……。
地獄のような時間がどれほど続いただろうか。
屋敷内を家探ししていた男達がビリデクトの元に集まると、ビリデクトは忌々し気に吠えた。
「くそっ! 今日のところは引き上げてやるが、諦めたわけじゃないからな!」
「私にはお前の居場所は筒抜けなんだ! 隠し事などできないと思い知らせてやる!」
「お前も来い! 屋敷までたっぷり痛めつけてやる!」
まだやるというのか……。
僕はその言葉に体中から血の気が引く。
ジョシュア様は今どんな思いでいるんだろう。
僕よりもずっと、絶望を感じているんじゃないか。
カタカタと震え出してしまう僕の肩を、オーロが繰り返し宥めるように撫でている。
ガラガラと遠ざかってゆく馬車の音が完全に消えてしまうまで、僕は茫然自失としていた。




